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横須賀美術館の展示作品


階段の靴音

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階段の靴音
階段の靴音

 横須賀美術館に展示されている作品の一部です。実際の作品と、ホームページに掲載されている絵と全然違うじゃんって思うかもしれませんが。わざと、画室を落とし、異なる色彩、異なるコントラストになるよう手を加えています。
 やはり美術品は、しっかりとしたライティングの下で、実物を見てもらいたいので。ホームページに掲載している絵は、「なんとなくこんな感じ」といったイメージで見てください。
 谷内六郎の作品、『階段の靴音』です。1956年(昭和31年)から26年間、『週刊新潮』の表紙絵を担当しました。その原画総数は約1300枚になります。昔懐かしい郷愁を誘う情景だけでなく、不安や恐怖といった暗い感情、谷内らしい機知の効いた場面を描いた作品もあります。
 表紙絵1枚につき約400文字の「表紙の言葉」を書き残しています。表紙絵に込められた思いや、社会に向けたまなざしを伺うことができます。
 谷内六郎は1921年に東京で生まれます。幼少期から喘息で入退院を繰返しますが、絵筆を離すことはなく、10代の頃から新聞や雑誌にイラストや漫画が掲載されています。1955年、文藝春秋第1回漫画賞を受賞します。1956年、『週刊新潮』創刊と同時に表紙絵を担当し、81年に亡くなる26年間、表紙絵を描き続けました。この他にも、壁画、ろうけつ染、絵本などの作品を制作しています。
 1975年、横須賀市内にアトリエを構えました。

三浦半島観光地図:横須賀市鴨居・横須賀美術館
三浦半島観光地図:横須賀市鴨居・横須賀美術館の内部

写真撮影:----年--月--日

FIGURE F

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FIGURE F
FIGURE F

 清水九兵衛(きよみずきゅうべえ)による作品、FIGURE F(フィギュアF)です。1989年(平成元年)の作品で、アルミニウム製で高さ2.5m、幅3mの巨大な作品です。入り口に設置されているんですが、みんな作品だと気付かずに素通りしてしまうんだよね。
 手前に大きく突き出た「C」のような形が特徴です。この部分は分厚いアルミニウム製で、後ろの壁のような部分は木のパネルをジグザグに繋ぎ合わせて作られています。鮮やかな赤色が目立つ、大型の彫刻作品です。
 金属による幾何学的な、抽象彫刻で知られた作家です。板状の部材を組み合わせた、構成的な形態を得意としています。FIGURE Fでは、アルミと木を使い、木製パネルの大きさを巧みに生かしたスケール感あふれる空間を作り出しています。印象深い朱色は、清水が野外彫刻の中でしばしば効果的に使っていますが、室内展示として製作されながらも、朱色の塗装が施されている点が目を惹きます。FIGUREシリーズは1985年〜1989年まで製作され、「F」と付いたこの作品が最後になっています。
 陶芸家としては、七代清水六兵衛(ななだいきよみずろくべえ)という別の顔を持ちます。彫刻に興味を持ち、彫刻作品を発表する時は清水九兵衛の名を名乗りました。
 1922年、愛知県に生まれました。名は廣ですが、後に洋士、洋、裕詞などと名乗っています。自分の名前が、あまり好きではなかったのかもしれないですね。
 1942年、名古屋高等工業学校建築科を繰り上げ卒業し、兵役に就きます。
 1951年、六代清水六兵衛の養嗣子となります。この時、東京藝術大学工芸科鍛金部に在学しています。
 1966年、五東衛(ごとうまもる)の名で、初めて彫刻作品を発表します。
 1968年、清水九兵衛の名で、彫刻の初個展を開きます。以後、1987年まで陶作品の発表を中止します。
 1974年、神戸須磨離宮公園第4回現代彫刻展で、神戸市教育委員会賞を受賞します。
 1980年、六代六兵衛の死去に伴い、七代清水六兵衛を襲名します。襲名披露は1987年に行われました。
 2000年、六兵衛の名を長男の柾博に譲り、再び九兵衛の名で彫刻に専念します。
 2006年、京都府で亡くなりました。

写真撮影:----年--月--日

ナショナル・ルート6

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ナショナル・ルート6
ナショナル・ルート6

 菅井汲(すがいくみ)による作品、ナショナル・ルート6です。1965年(昭和40年)に製作された油彩・画布です。
 白と黒の縞模様に、緑の丸い物体が組み込まれています。色彩がハッキリとしており、形の組み合わせも堂々としていますが、じっくりと見れば色がぼかされている部分もあります。線と丸との重なりに、奥行きを感じます。
 1965年前後は、菅井汲の作風に大きな変化が現れ、方向性が固められていく、重要な時期になります。これまでの激しい筆勢をともなった荒々しい線が影を潜め、機械的な輪郭線を多用し、色彩豊かな図形的要素を組み合わせる構成的な画面が生み出されるようになります。「ナショナル・ルート」、「オート・ルート」など高速道路を表現した作品名も、こうした傾向と時期を同じくして現れます。
 菅井汲は、パリで活躍した画家です。私生活では自動車好きで知られています。猛スピードで運転する緊張感や、その時に見える風景が制作に影響を与えたと言われています。
 1919年、兵庫県に生まれました。本名は貞三です。
 1933年、大阪美術学校に在学していましたが、病弱だったため通学を諦めました。
 1937年、阪神急行電鉄株式会社で宣伝物を手掛け、ポスターなどが注目されます。
 1948年、デザインのかたわら、院展などに出品するようになります。
 1952年、パリに渡ります。
 1954年、パリ・グラヴァン画廊で初個展を開き、各誌に取り上げられて評価を得ます。
 1965年、第8回サンパウロ・ビエンナーレに出品し、外国作家最優秀賞を受賞します。
 1967年、高速道路上で、自動車事故を起こします。重傷を負い、完治するまで数年を要します。
 1983年、日本の西武美術館などで、初の回顧展を開催します。
 1996年、2月に帰国し、5月に兵庫県で亡くなりました。

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山頂の石蹴りNo.6

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山頂の石蹴りNo.6
山頂の石蹴りNo.6

 中西夏之(なかにしなつゆき)による作品、山頂の石蹴りNo.6です。1970年(昭和45年)に制作された、油彩・画布です。
 大きな画面の隅々まで、細い線と、モヤモヤとした筆使いで何かが細かく描かれています。上の方にあるオレンジ色の部分は、遠くの光のようにも見え、物語の一場面なのかもしれません。
 1969年から始まる「山頂」シリーズ。切り立った場所の象徴で、山頂のような緊張感のある場所に自らを追い込むことこそが、絵画を制作するために必要なものだと語っていました。1960年代前半は、過去の芸術・美術に対する否定的な意識が感じられますが、その後に取り組むことになる作品には、否定的な意識よりも、絵画の意味を人類の歴史の中で再評価しようとする意識の方が強く伺わせられます。
 中西夏之が20歳代には、過去の芸術を批判する先進的な美術の動きをリードします。その後、「絵画とは何か」を改めて考え直し、その思いを込めて作品を作っています。
 1935年、東京都に生まれました。
 1958年、東京藝術大学絵画科油画専攻を卒業します。
 1959年、シェル美術賞佳作賞を受賞します。
 1962年頃から、日用品をアクリル樹脂で固めた「コンパクト・オブジェ」シリーズを始めます。
 1963年、高松次郎、赤瀬川原平らとともに「ハイレッド・センター」の名でパフォーマンス「第五次ミキサー計画」を行います。以降、同グループは64年までに、たびたび街頭パフォーマンスを実施します。
 1965年、この頃から、舞踏家・土方巽らとの交流が始まります。のちに舞台美術も手掛けるようになります。
 1967年、個展(南画廊)で油彩画を発表します。以降、絵画が作品の中心となります。
 1996年、2003年まで東京藝術大学教授を務めます。
 2004年、第45回毎日芸術賞を受賞します。

写真撮影:----年--月--日

Valleys 2nd Stage

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Valleys 2nd Stage
Vlleys 2nd Stage

 若林奮(わかばやしいさむ)による作品、Valleys(2nd Stage)です。ヴァリーズ(セカンドステージ)って読みます。1989年(平成元年)に制作され、2003年(平成18年)に設置された鉄の芸術作品です。画像は色々と加工を加えているので、メガソーラー発電にも見えちゃいますね。
 美術館の前の庭にある、大きな鉄の彫刻です。中を通り抜けることができますが、作品なので登って遊ばないでね。鉄が錆びないように、亜鉛メッキが施されています。
 高さ3m、全長46mの鉄の谷が美術館前庭に設置されています。元は2列の谷でしたが、1本の直列の谷として設置しました。海の近くにある美術館のため、塩害を防ぐ溶融亜鉛メッキを施し、やや本来の趣きとは異なる作品になっています。谷間を歩くことで、自然の中に設置された作品のスケールを感じることができると思います。若林は1977年ごろから、自身と対象に間を観察し、それを物質に置き換えることを始めました。自分と対象の間を満たす空間を計る尺度「振動尺」について考察を重ねました。鉄の面によって囲まれた細長い奥行きを持った場所、物質的な虚構にみえるものとしての「振動尺」の場を試みた作品です。
 若林奮は鉄、鉛、硫黄など、さまざまな素材を使って彫刻を制作しました。身近な物を観察しつつ、「彫刻を作ること」とはどういうことなのかを考え続けました。
 1936年、東京に生まれました。
 1959年、東京芸術大学を卒業します。
 1960年、第45回二科展で、二科45周年記念賞を受賞しました。
 1969年、大阪万国博覧会に『3.25mのクロバエの羽根』を展示しました。
 1973年、神奈川県立近代美術館で「若林奮デッサン・彫刻展」を開催します。
 1973年〜1974年、文化庁芸術家在外研究員としてフランスに渡り、滞在中に南フランスの旧石器時代の遺跡や、エジプトの古代遺跡を訪れます。
 1980年、1986年、ヴェネツィア・ビエンナーレに出品します。
 1995年、東京都が建設するゴミ処分場に反対し、建設予定地に『緑の森の一角獣座』を制作します。
 2003年、亡くなりました。

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DrumS DrumP

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DrumS DrumP
DrumS DrumP

 斉藤義重(さいとうよししげ)による作品、Drum S、Drum Pです。1998年(平成10年)に制作され、ラッカー、金属ワイヤー用木製ドラムです。横須賀美術館に展示されている作品の中でも、迫力があって印象に残る作品です。
 大きな糸巻きがゴロンと転がっています。斜めに傾いていて、長い軸が出ています。表面は真っ黒ですが、それぞれに名前が付いています。少しだけ違う部分があるけど、わかるかな?
 富山県の発電所美術館の個展のために制作された作品です。展示する場所に合わせて、電線コード用の大きな木製ドラムをその場で解体し、組み直して出来上がった作品です。SとPは、「Support」と「Push」を意味しています。斜めに配置された板の役割で、『Drum S』では板が傾倒するドラムを支える「Support」で、『Drum P』は板がドラムを傾倒させる「Push」になっています。2作品が並ぶことで、そこに新たな別の世界が生まれます。
 斉藤義重は、新しい表現に興味を持ち、さまざまな実験をしました。絵の表面をドリルで削ったり、板を貼ったり、作品の周りの空間も作品に利用しました。
 1904年、東京に生まれました。
 1920年頃、ロシア未来派やマヴォなどの前衛活動に影響を受け、関心を寄せるようになります。
 1933年、アヴァンギャルド洋画研修所に入所します。
 1936年、二科展で『出立』、『アブストラクト』が初入選します。
 1939年、美術文化協会同人になります。九室会展に出品するものの、翌年には退会してしまいます。
 1957年、日本国際美術展で『鬼』がK氏賞を受賞します。
 1960年代、「半立体=半絵画」なるものを制作します。
 1980年代、おもにインスタレーションを手掛けます。
 2001年、亡くなりました。

写真撮影:----年--月--日

Work 62-18

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Work 62-18
Work 62-18

 磯辺行久(いそべゆきひさ)による作品、Work 62-18です。1962年(昭和37年)に制作された、ミクストメディア・板の作品です。
 「ワッペン」シリーズと呼ばれ、磯辺行久を有名にした作品のひとつです。ワッペンは描かれているのではなく、貼り付けられています。この中に、模様や形が同じ物が混じっています。
 厚みのあるワッペンは、型抜きした段ボールをひとつひとつ、板に打ち付けて表現した作品です。その後、画面全体を大理石粉入りの塗料で塗って仕上げています。独特の白っぽい色は、漆喰の壁のようでもあり、カンヴァスや紙とは違った強い存在感を感じさせます。ワッペンの配置には一定のリズムがありますが、規則的なものではなく、ガタガタとした歪みや、色のかすれが印象的です。その微妙な不規則性は、古い建物を見る時にも通じる不思議な時間性を感じることができます。
 磯辺行久は、最初は版画を制作し、その後、1961年から4年間で、多くのワッペンシリーズを制作しました。現在は「エコロジー」に興味を持ち、「環境計画」などの分野で活躍しています。
 1935年、東京都に生まれました。
 1955年、デモクラート美術家協会に参加します。
 1956年、第8回読売アンデパンダン展に出品し、以後第15回まで出品します。
 1959年、東京藝術大学を卒業します。
 1962年、パリのスタドラー画廊で「反復の構造」展を開きます。この時期、段ボールに大理石粉を塗り付けたパーツを板に貼り込んだ半立体的な作品を集中的に制作します。
 1965年、アメリカに渡ります。この頃から、建築や都市計画に関心を向け始めます。
 1970年、エコロジーを学ぶためにペンシルバニア大学大学院に入学します。1972年には、修士課程を修了します。
 1996年、この頃から環境デザインや環境計画の仕事と並行して、作品制作を再開します。
 2000年、越後妻有アートトリエンナーレに参加します。2003年も参加します。

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クレーンと人

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クレーンと人
クレーンと人

 靉嘔(あいおう)による作品、クレーンと人です。1954年(昭和29年)に制作された、油彩・板です。
 青い空と白い雲を背景に、工事現場で働く人の足や、クレーンが生き生きと明るい色で描かれています。ダイナミックでエネルギーに満ちた絵です。
 戦後、徐々に社会に活気を取り戻していた時期、明るい色彩で、大胆に、人物と工事現場と言う一連のテーマを描いた靉嘔の初期作品です。人物の造形や、工事現場で働く人間と言うテーマに、この頃にフェルナン・レジェという画家の影響を強く受けていることが見てとれます。働く人間と、機械のクレーンを、肯定的にとらえ、前向きに時代を見つめている様子がうかがえます。
 靉嘔は大胆で力強く人物を描きました。1958年からニューヨークを中心に、フルクサスにも参加し、活躍しました。
 1931年、茨城県に生まれました。
 1953年、デモクラート美術家協会に出品します。
 1955年、最初の個展を開催します。
 1958年、アメリカに渡り、ニューヨークで制作を始めます。
 1962年、フルクサスに参加します。
 1963年頃、虹のスペクトルを活かした虹シリーズで注目されます。
 1966年、ヴェネツィア・ビエンナーレに出品します。
 1970年、第7回東京国際版画ビエンナーレで受賞します。
 2006年、福井県立美術館で、靉嘔AY-O回顧1950-2006展を開催します。

写真撮影:----年--月--日

グラジオラス

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グラジオラス
グラジオラス

 靉光(あいみつ)による作品、グラジオラスです。1942年(昭和17年)頃に制作された、油彩・板です。
 夜の中に、白い花が咲いています。花の影に、昆虫のお化けが隠れており、じっとこちらを見つめています。怖い夢の中に引き込まれそうな気持ちになります。
 画家の名前は靉光と書いて「あいみつ」と読みます。自分で名付けましたが、不思議な名前で、戦争の時代をこの名前で生き抜き、戦争が終わった直後に亡くなりました。そのためか、描く絵には暗い絵が多く、この作品も全体的に暗い感じです。小さな画面に、植物と生物がひしめき合っています。花なのか昆虫なのか見分けがつかず、息を殺して暗がりに潜んでいるものがいます。自分が生きて、そのために死ななければならなかった戦争の時代の暗い恐怖を、こういった表現で描いたと考えることもできます。
 靉光は暗い戦争の時代を生きねばならなかった一人の人間の苦しみを、その最後に、3点の自画像によって描いたことで有名な画家です。
 1907年、広島県に生まれました。本名は石村日郎といいます。
 1924年、上京します。太平洋画会研究所に学び、麻生三郎、鶴岡政男、松本竣介らと交流します。
 1925年、二科展に入選します。以後、二科会、一九三〇協会、独立美術協会に出品します。
 1935年、『ライオン』で中央美術協会賞を受賞します。
 1938年、『眼のある風景』で独立美術協会賞を受賞します。
 1939年、美術文化協会の結成に参加します。
 1943年、松本竣介らと新人画会を結成します。
 1944年、応召に応じます。
 1946年、上海で戦病死します。

写真撮影:----年--月--日

室内

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室内
室内

 三岸節子(みぎしせつこ)による作品、室内です。1941年(昭和16年)に制作された、油彩・画布です。
 明るく華やかな色と模様で、部屋の中が描かれています。壁紙、絨毯、女の人が着ている服などは見ていて楽しい気分にさせられます。でーぶるの上にある花瓶や置き物は、結婚していた三岸好太郎(みぎしこうたろう)が集めていた物です。
 赤を基調として、椅子、テーブル、女性のいる室内の様子を描いています。絨毯や壁紙の模様が、細かく描かれています。この作品が描かれたのは、日本が戦争に向かっていく頃でした。三岸節子は3人の子供を抱えており、安定した時期ではないにもかかわらず、自分の考える美しい絵を描こうとしていました。特にこの頃は、「室内」と「静物」といった身近な物を書いていました。
 三岸節子は女性画家の先駆けとして活躍した人物です。生涯を通じて、意欲的に絵を描き続けました。
 1905年、愛知県に生まれました。
 1924年、女子美術学校を卒業します。この時期、三岸好太郎と結婚します。
 1934年、夫の三岸好太郎が亡くなりました。
 1939年、新制作派協会会員に迎えられ、独立展を退きます。
 1946年、佐伯米子らと共に女流画家協会を結成します。
 1968年、南フランスのカーニュに引っ越します。
 1977年、パリ近郊のヴェロンに引っ越します。
 1994年、女性洋画家として初めて、文化功労賞に選ばれます。
 1998年、生家跡地に尾西市三岸節子記念美術館が開館します。
 1999年、亡くなりました。

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独立美術首途;第2の誕生

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独立美術首途;第2の誕生
独立美術首途;第2の誕生

 児島善三郎(こじまぜんざぶろう)による作品、独立美術首途;第2の誕生です。1931年(昭和6年)に制作された、油彩・画布です。
 3人の女性が立っています。これは、「独立美術協会」というグループ結成を記念して描かれた作品です。中央の女性は、独立美術の新たな誕生を祝うヴィーナスです。
 明るい紫と、床の暗い緑色のハッキリとした対比を背景に、3人の女性が描かれています。児島善三郎はフランス、イタリア、スペインで、ヨーロッパの古典を勉強しました。この作品は、その成果を取り入れたものです。日本に帰国し、1931年に独立美術協会の結成に参加し、第1回独立展に出品しました。独立美術を祝福する、児島善三郎の代表作です。
 児島善三郎はパリに渡り、ドランという画家の絵の影響を受け、古典作品を学びます。その後は、豪快かつ色彩に溢れた作品を描いています。
 1893年、福岡県に生まれました。
 1913年、上京し、本郷洋画研究所で学びます。
 1921年、二科展に初入選します。
 1923年、円鳥会に参加します。
 1925年〜1928年、ヨーロッパに渡ります。
 1930年、二科展を退会し、独立美術協会の設立に参加します。
 1959年、東京松屋銀座で「児島善三郎自選展」を開催します。
 1962年、亡くなりました。

写真撮影:----年--月--日

河原

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河原
河原

 須田国太郎(すだくにたろう)の作品、河原です。1934年(昭和14年)に制作された、油彩・画布です。
 絵の下の方に描かれた丸い物が石なのかもしれません。しかし、四角形をした物も混ざっており、建物のようにも見えます。題名は『河原』ですが、木の枝、犬など、色々な物が描き込まれた不思議な印象を受ける絵です。
 この作品は作者の日記から、何度も修正されて描き直された大変な苦労作であることがわかっています。テーマは「河原」に決めたものの、途中で「市街風景」に変更したり、「渓流に裸婦をあしらう」構成に変更したりしています。最終的には、右に走り去る犬を描き込んで、ようやく納得できる作品になったそうです。良く見てみると、幾重にも重なった複雑な筆跡を見ることができます。この作品に限らず、塗った後にこすったり、拭き取ったりして、凝った絵を作るのが、須田国太郎の特徴でもあります。この作品には、その特徴が良く現れています。
 須田国太郎は大学で美学美術史を学び、1919年から4年間、ヨーロッパに滞在しました。帰国後は、美術史の教師となって、やがて画家としても活躍するようになります。
 1891年、京都府に生まれました。
 1917年、京都帝国大学大学院で絵画理論を研究しながら、関西美術院でデッサンを学びます。
 1919年、ヨーロッパを外遊し、スペインのマドリッドに滞在します。
 1923年、帰国します。
 1925年、和歌山県の商業学校講師となります。以後、京都帝国大学など複数の教育機関で美術史などを教えます。
 1933年、独立美術京都研究所の開所にともまって、1944年まで美術史や絵画理論などを教えます。
 1934年、独立美術協会の会員となります。この年、初めて個展を開きます。
 1947年、日本芸術院の会員となります。
 1950年〜1960年、京都市立美術大学の教授になります。
 1961年、京都府で亡くなりました。

写真撮影:----年--月--日

窓のある建物;パリ風景

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窓のある建物;パリ風景
窓のある建物;パリ風景

 佐伯祐三(さえきゆうぞう)の作品、窓のある建物;パリ風景です。1925年(大正14年)に制作された、油彩・画布です。小さな絵画ですが、横須賀美術館に展示された作品の中では一番心に残った作品です。個人的には一番のオススメ作品です。
 土色の建物が迫ってくるように立ちはだかっています。芸術家たちの憧れ「芸術の都パリ」で描かれたとは思えないくらい、暗くて重苦しい絵です。
 土色の壁の建物の窓が開いています。開放的とは言えない黒い窓で、屋根の上には薄暗い鉛色をした空が垂れこめています。1924年、26歳だった佐伯祐三はパリに到着しました。滞在中は写生旅行に出かけ、ブラマンクに会うなど活発に活動しました。1925年には、サロン・ドートンヌに入選しました。この年に描かれたのが、『窓のある建物』です。当時の佐伯は、パリの街を描いたユトリロの作品に接し、ブランマンクのフォーヴィスムから脱する時期にあったとされますが、この作品からはユトリロのような街への愛着を感じることができません。暗く、重厚な建物がやや右側に傾き、画面全体に広がっている様子は、佐伯の前に立ちはだかる苦難を暗示しているかのような印象を受けます。
 佐伯祐三は美術学校を卒業した年に、パリに絵の修業に行きました。認められて一度は日本に帰国しましたが、絵が描けなくなり、再びフランスに渡ります。その後、日本に戻ることなく30歳の若さで亡くなりました。
 1898年、大阪府に生まれました。
 1923年、東京美術学校を卒業します。妻子をともない、フランスへ渡ります。
 1924年、パリのグラン・ショーミエールに通いますが、ヴラマンクを訪れた際にそのアカデミスムを一喝されます。
 1925年、ユトリロの作品に接してフォーヴィスムを脱却し、叙情的な作風をも取り入れます。サロン・ドートンヌに『コヌルドリ靴屋』、『煉瓦屋』を出品し、入選します。
 1926年、帰国します。第13回二科展に滞欧作を発表し、二科賞を受賞します。里見勝蔵、前田寛治らと一九三〇年協会を結成します。
 1927年、再びフランスへ渡ります。パリ滞在中は、荻須高徳、山口長男と交流します。
 1928年、パリ郊外の病院で亡くなりました。

写真撮影:----年--月--日

前向きの裸女

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前向きの裸女
前向きの裸女

 小出楢重(こいでならしげ)の作品、前向きの裸女です。1930年(昭和5年)に制作された、油彩・画布です。
 画面いっぱいに裸の女性が描かれています。大きくて、ドッシリとしていて、元気がありそうです。でも、画面の外に転げ落ちてしまいそうです。女性は曲線で描かれていますが、その下の布は直線で描かれています。なぜこのように描くのか、不思議に感じます。
 小出楢重は、裸婦を描く名手だと言われてきました。八頭身の美女を描くわけではなく、背が低くて胴が長い、肌も黄色いのが欠点とされてきた日本女性を、一番美しいと感じ、情熱的に描いてきました。西洋から輸入された油絵の技術を使って、西洋的で理想的な美を追い駆けるのではなく、日本の現実の中に根付いている美しさを、信念を持って描こうとしてきました。力強く迫力に満ちた表現ですが、画面を整理し、単純化し、描こうと思う物だけに焦点を当てることで、線の動きや色彩の鮮やかさを浮かびださせようとする工夫と努力の賜物です。
 東の横綱が岸田劉生だとするならば、西の横綱は小出楢重と呼ばれていたほど、大正時代・昭和初期を代表する画家の一人です。
 1887年、大阪府に生まれました。
 1907年、東京美術学校日本画科に入学します。のち、西洋画科に転科します。
 1919年、第6回二科展出品の『Nの家族』で樗牛賞を受賞します。
 1920年、『少女於梅之像』で二科賞を受賞します。会友に推薦されます。
 1921年、フランスへ渡りますが、翌年には帰国します。
 1922年、二科会会員になります。
 1923年、信濃橋洋画研究所を創設し、毎年、研究所展を開催します。
 1931年、亡くなりました。

写真撮影:----年--月--日

ル・アーブルの港

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ル・アーブルの港
ル・アーブルの港

 藤田嗣治(ふじたつぐはる)の作品、ル・アーブルの港です。1917年(大正6年)に制作された油彩・画布です。
 どんよりとした空に、ヒョウタン型の雲が浮いています。一直線に横切る海は、とても静かです。港を描いていますが、賑わいはなく、海を眺める人、歩く人、浜辺で何かをしている人、なぜかみんな小さくて真っ黒です。
 乳白色の裸婦が有名な藤田嗣治の作品の中でも、この作品は「エコール・ド・パリの寵児」誕生前夜の作品として貴重なものです。黒田清輝の影響が根強い日本から逃れるようにフランスへ渡った藤田は、第一次世界大戦開戦後も帰国しませんでした。必然的に異邦人のるつぼの住人となりました。東洋人である自分が希少な存在であることに気付き、現地に同化しながらも、日本人としての自分の表現を貫く姿勢は、この頃に培われたものです。戦争の激化に怯えるフランスと、画家の独特な内面を覗かせるこの作品は、その頃に描かれたものです。
 藤田嗣治はおかっぱ頭に丸眼鏡です。自分だけのスタイルです。自分を魅力的に見せることがとても上手な人でした。当時の世界で、一番有名な日本人画家です。
 1886年、東京に生まれました。
 1905年、森鴎外に従って東京美術学校の西洋美術科へ入学します。
 1910年、大学を卒業します。
 1913年、フランスへ渡ります。モンパルナスでモディリアーニ、ピカソらと交友を持ちます。
 1914年、第一次世界大戦が勃発。日本に帰国せず、残留を決意します。
 1919年、サロン・ドートンヌに初入選します。会友に推挙されます。
 1929年、帰国します。日本で個展を開催します。1940年まで、中南米を旅したり、日本とフランスを行き来するようになります。
 1940年、帰国します。陸軍の依頼によって、戦争画を描きます。
 1955年、フランスに帰化します。晩年は、キリスト教的主題や、子供を多く描きます。
 1968年、スイスで亡くなりました。

写真撮影:----年--月--日

毛皮の女

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毛皮の女
毛皮の女

 国吉康夫(くによしやすお)の作品、毛皮の女です。1930年(昭和5年)に制作された油彩・画布です。
 少し疲れた様子の女性が、毛皮を羽織って椅子に腰かけています。茶色や黒っぽい色を中心に使って、不安な時代の雰囲気を伝えています。毛皮の毛も、細やかに描かれています。
 1920年代後半から、多くの女性像を描いています。どこか物憂げで、疲れた様子をしていますが、特定の女性ではありません。当時の国吉康夫は、アメリカで画家としての確固たる地位を獲得していました。しかし、市民権を得ることはできず、孤独な状況にありました。経済的な不況がアメリカに暗い影を落とす中、国吉は自分自身を重ね合わせて共感できる、理想の女性を描いていたと考えられます。
 アメリカに渡って、働きながら絵の勉強をしました。日本人ですが、アメリカを代表する画家として認められています。
 1889年、岡山県に生まれました。
 1906年、アメリカに渡り、ロサンゼルス美術学校で学びます。
 1910年、ニューヨークに移住します。
 1916年、アート・ステューデンツ・リーグに入学します。
 1929年、日本人画家でありながらニューヨーク近代美術館で「19人の現在アメリカ作家展」に選ばれます。
 1931年、日本に一時帰国します。
 1932年、二科会会員となります。
 1948年、ホイットニー美術館で現在作家として初の回顧展が開催されます。
 1953年、亡くなりました。

写真撮影:----年--月--日

モレー

バス停観音崎京急ホテル下車 徒歩1分
モレー
モレー

 梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう)の作品、モレーです。1911年(明治44年)に制作された油彩・画布です。
 青い空、豊かな緑、赤茶色の屋根。日本の風景ではなく、フランスのモレーという街の風景を描いています。梅原は、絵の勉強をするためにフランスへ留学しました。そして、有名なルノワールに絵を習いました。
 1908年、梅原龍三郎はフランスへ渡り、半年後、カーニュにルノワールを訪ね、師事しました。この作品はそれから数年後、1911年のスペイン旅行で体調を崩した際に、休養を兼ねて向ったパリ郊外のモレーの風景です。ルノワールを思わせるような柔らかな筆致と、印象的な色彩が目を惹きます。独特の力強いフォルムと筆致、色使いをもってして、安井會太郎と並んで活躍し、梅原・安井時代といわれる日本洋画の隆盛期を築きました。
 梅原龍三郎は、ヨーロッパから伝えられた油絵の技法で、日本風、自分流の作品を描きました。とても大胆で力強い作品は、世界中どこを探しても梅原にしか書くことができません。
 1888年、京都府に生まれました。
 1903年、伊藤快彦の画塾・鐘美会で洋画を学びます。のち、聖護院洋画研究所で学びます。
 1906年、関西美術院で、朝井忠の指導を受けます。
 1908年〜1913年、ヨーロッパに渡ります。
 1914年、二科会の設立に参加します。
 1922年、春陽会創立に会員として参加しますが、1925年には脱会してしまいます。
 1926年、国画創作協会に入り、洋画部を創設します。
 1928年、国画会を主宰になり結成します。
 1939年、以後、たびたび中国を訪問し、中国風景を描きます。
 1952年、文化勲章を受章します。第2回ヴェネツィア・ビエンナーレの国際審査員を務めます。
 1986年、亡くなりました。

写真撮影:----年--月--日

少女

バス停観音崎京急ホテル下車 徒歩1分
少女
少女

 中村彜(なかむらつね)の作品、少女です。1913年(大正2年)に制作された、油彩・画布です。
 現在はカレーで有名となった「新宿中村屋」に下宿していた画家が、その家の娘さんを描いた作品です。娘さんは中学生で、名前は相馬俊子(そうまとしこ)といいます。
 長い黒髪、大きな瞳、赤い頬にあどけなさが残りますが、若々しく健康的な姿が印象的です。中村彝は1911年から3年間、萩原守衛をはじめとする芸術家や亡命中のインド独立運動指導者などが出入りする新宿中村屋に下宿していました。1913年から翌年にかけて、下宿先の娘である相馬俊子や、母の相馬黒光との恋愛や、芸術家との交流に彩られた時期に描かれた作品です。画家とモデルの信頼関係を映し出しています。
 中村彝は中村屋に下宿し、そこに出入りする芸術家たちと交流を持ちました。画家として高く評価され、活躍が期待された矢先、結核のために亡くなりました。
 1887年、茨城県に生まれました。
 1904年、東京陸軍幼年学校に入学しますが、肺結核のため退校します。
 1905年、千葉北条湊で療養し、風景の水彩スケッチを始めます。
 1906年、白馬会溜池研究所に入ります。
 1907年、太平洋画会研究所に移ります。中村不折、満谷国四郎に師事します。
 1909年、第3回文展に入選します。
 1911年〜1915年、中村屋の裏にある画室に住み込みます。
 1920年、『エロシェンコ氏の肖像』で賞賛を受けます。
 1922年、帝展審査員に推されますが、病気のため審査に当たれませんでした。
 1924年、結核で亡くなりました。

写真撮影:----年--月--日
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