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 横須賀市長井史跡巡り・観光名所案内

横須賀市長井
三浦半島ナンバー2の町
   長井はとても広いので、たくさんの史跡があります。江戸時代、三浦半島では浦賀の次に栄えていたので、それも頷けるかもしれません。長井の街並み歩いていると、古きころの良さというのが残っています。
 富浦公園前の小田和湾では1928(大正3)年ごろから海苔の養殖が行われています。
 現在、ソレイユの丘ができたので、かなり雰囲気も変わってきてしまいました。横須賀市は公共事業が大好きなので、なんでもかんでも作りたがるんです・・・



長井の乗り合い馬車 バス停長井下車 徒歩0分
 
 1900年(明治33年)、長井〜佐野に乗合馬車が開通しました。その発着所が長井バス停のあたりだったそうです。
 営業は、嘉山六郎衛門と原田耕作が共同で行い、運賃は最初は20銭、のちに40銭となりました。
 1918年(大正7年)、嘉山元次郎が、長井〜横須賀の間で乗合自動車の営業を始めました。その運賃は、長井〜漆山間で、30銭もしたといわれ、一般市民が買い物くらいではとても乗れないものでした。

慶応寺地蔵 バス停長井下車 徒歩3分
 
 江戸時代、御幸ヶ浜に慶応寺というお寺があり、参道には何体もの石の地蔵ひっそりと立っていました。しかし、御幸ヶ浜が海兵団に接収されて、明治の始めに廃寺となり、3体ほどの地蔵が大木根から井尻に向かう旧道入口の角に祀られ、慶応寺の名残をとどめています。また、本尊であった阿弥陀如来は、同じく長井の不断寺に安置されています。
 地名の大木根、小根岸は、県道を境にして片側に台地が広がり、昔からの農村地で、大地の根方に村ができて名付けられたそうです。

荒井観音道標 バス停井尻下車 徒歩5分
 
 この辺りを井尻といい、旧道の川間橋近くの十字路に、荒井観音堂へ行く道標が立っています。
 正面に「南無大悲観音菩薩・左、長井村江道・右、あらい勧んをんみち」とあります。1711年(正徳元年)7月に建てられた古い道標です。
 井尻の地名は、1841年(天保12年)の『新編相模国風土記稿』に載っていない地名で、そのあとに正式に名付けられたのかもしれません。荒崎城のあった方を頭とすると、このヘンが長井の尻にあたるので、『井尻』といわれるようになったそうです。
 井尻の川間には、江戸相撲錦島部屋の親方をした錦島三太夫の出た安西家がありました。この人は、現役の頃『走船猪牙右衛門』といい、1845年(弘化2年)、師の跡を継ぎ、錦島親方になった人で、嘉永・安政の頃(1845年〜1859年)、盛んであった三浦相撲の隆盛に尽くした人であったといわれています。
 長坂の祖母神社下、1868年(明治元年)に弟子たちが建てた三太夫の供養塔があり、台石に27名の弟子の名が刻まれています。

第六天神社(だいろくてんしゃ) バス停井尻下車 徒歩5分
 
 祭神は、天神七代のうちの第六番面足神(おもたるのかみ)、惶根神(かしこねのかみ)
 第六天社は、井尻地区の里神で、年3回の神楽が奉納される祭があります。明治の一村一社の命令で一時は熊野神社に合祀されましたが、戦後また井尻に祀られました。
 石段下には、たくさんの庚申塔があり、このあたりの庚申信仰が盛んだった様子を物語っています。浄入坊の名がある庚申塔もあります。
 大六と目にすると、第六天魔王を称した織田信長を思い出してしまいます。

浄念坊 バス停井尻下車 徒歩5分
 
 阿弥陀如来や、地蔵菩薩が祀ってあります。 『新編相模国風土記稿』には、阿弥陀堂とあり、僧の浄入が建てたので、浄入庵とも呼ばれていたとあります。きっと、昔は庵か坊などの小さなお堂が建っていたのでしょう。現在は、阿弥陀如来2体と、子育地蔵1体があります。
 また、この場所は、村の墓地にもなっていて、仏教者のみならず、丸山講の人のお墓や、キリスト教徒のお墓などがあるとてもめずらしい墓地です。

不断寺(ふだんじ) バス停不断寺下車 徒歩2分
 
 山号は三王山安楽院、宗派は浄土宗、鎌倉光明寺末寺、本尊は阿弥陀如来、開基は四代執権・北条経時、創建は1592年(文禄元年)です。
 創建当時は、鎌倉の長谷に住む北条経時の屋敷内にありましたが、幕府滅亡とともに荒廃し、1592年(文禄元年)、当時の住職・教誉がこの地に移したと伝えられています。後北条氏の真宗弾圧を受け長井に移ってきたとも考えられています。
 浄土宗の十二光仏の1つ、不断光仏からとった寺名で、ひなびた一漁村であった長井村の繁栄を願い、永遠に絶えずという意味を込めて寺号にしたといわれています。
 再三火災に遭いましたが、本尊阿弥陀三尊と欄間を飾る彫刻は残されています。
 不断寺裏山に、北条経時のお墓と伝えられている宝篋印塔があります。『蓮花寺殿安楽居士』とあり、台石の三方に『不断光』と彫られています。1817年(文化14年)の建立とあるので、供養塔か、お墓を再建したものだと思われます。本堂の屋根には、北条氏の家紋『三つ鱗』がのっています。
 また、岩国藩士山田直人のお墓もあり、かつて長井には岩国藩の海防陣屋が置かれていた時代を物語る数少ない遺産です。

長徳寺(ちょうとくじ) バス停長井小学校下車 徒歩2分
 
長徳寺
長徳寺
 山号は中島山井華院、宗派は浄土真宗、京都本願寺末寺、本尊は阿弥陀如来、開基は行基菩薩。
 長徳寺がまだ建っていなかった頃、下の浜に大木が流れ着きました。浜の人々は、大木を珍しがっていましたが、この大木が夜になると人の泣き声を出すので、怖がってもいました。ちょうどそんなとき、遊歴中の行基が長井にやってきてその噂を聞き、大木を見ると、その大木は、徳道上人が大和の長谷寺や、鎌倉の長谷寺の観音像を造った残りの木だといいました。そこで行基は、その霊木で不動の像を彫り、中島というところに祀りました。供える水がなく困っていましたが、杖を地上に刺し法力で清水をわき出させ、それを供えました。これが元になり、井華院という名前が付きました。
これが長徳寺の始まりで、最初は天台宗で、本尊も不動明王でした。
 鎌倉時代、長井の領主であった三浦義澄も長徳寺の不動尊を厚く信仰していたそうです。
 また、鎌倉の管領・足利氏満も、長徳寺を祈願所と定めていました。のちに長徳寺を中興した了念は、5代将軍・足利義量の近臣で、1425年(応永32年)、将軍の死後僧となりました。晩年、蓮如に会い真宗に入り、長徳寺を中興しました。

玉泉考古館(ぎょくせんこうこかん) バス停長井小学校下車 徒歩2分
 
 長井小学校正門前にあります。
 地元の考古学研究者・玉泉正夫氏が、長井各地から集めた土器類がたくさんあります。
 1950年(昭和25年)に赤星直忠博士によって長井台地の最初の発掘が行われ、その後、玉泉氏らによって、長浜横穴群や長井台地の発掘が続けられ、1964年(昭和39年)に文化財保護条例が制定される以前の物が展示されています。
 1977年(昭和52年)、長井小・中学校の建て替え工事の際、縄文時代から奈良、平安時代に及ぶ住宅跡(内原遺跡)が発見され、土師器(はじき)、須恵器、鉄製農具などが発見されています。昭和61年7月から旧米軍長井ハイツ跡の発掘調査も行われ、古墳前期のものとみられる石棺、縄文から平安時代にかけての生活の遺物が発見されました。これらは、横須賀市自然・人文博物館に保管されています。
 見学には、事前申し込みが必要です。

ポックリ地蔵 バス停長井小学校下車 徒歩6分
 
 長徳寺の裏を上って、墓地の片隅に地蔵堂があります。正確には、地蔵菩薩ではなく、阿弥陀如来だそうです。
 名前の通り、ポックリいけるお地蔵さんです。意外と、多くの人に信仰されているようです。もともとは、『焼場の地蔵』といわれ、お寺の裏にある墓地の奥あたりに、火葬場がありました。風の向きによって、長井の村人たちが大変迷惑をしたようで、相談の結果、焼場を荒崎に移しましたが、地蔵はそのままの場所に残されました。昔は、焼き場の近くには必ず仏が祀られていて、亡者を救ってくれるといわれていました。その地蔵が、のちの人々の心に受け継がれて、『ポックリさん』といわれるようになりました。

オコリ石 バス停長井小学校下車 徒歩8分
 
 この辺りは、海岸集落唯一の水田地でした。細い道のかたわらに、大きな石が斜めに立っています。
 風の強い日になると、この石が怒ったようにうなり声をあげたので、その名がついたといわれています。今でも、正月飾りや、お賽銭があったりして、この石には神様が宿るという古くからの信仰が風習として現在に伝えられているようです。

長井寺(ちょうしょうじ) バス停漆山下車 徒歩5分
 
 山号は別覆(べぺ)山、宗派は浄土宗、鎌倉光明寺末寺、本尊は阿弥陀如来、開山は僧・金光。
 1182年(寿永元年)、経塚に創建されました。
 その後、1333年(元弘3年)、僧・周居のとき、別覆山に寺を移し改宗し、1547年(天文16年)、光明寺の僧・天達が再建しました。
 1737年(元文2年)、僧・碩冏(せきけい)により漆山に移りました。
 別覆山にまつわる次のような伝説があります。
 昔々、別覆山にべぺ太郎と、べぺ次郎という武士の兄弟が住んでいました。2人は三浦氏方の武士で、1516年(永正13年)、小田原の後北条氏に攻撃されたとき、守る人数が少なく大変困ってしましました。そこで、わら人形をたくさん作って山上に並べ、人数がたくさんいるように見せかけました。ところが、とある人が、「山の上にわら人形がたくさんある。」と、北条方の武士に言ってしまい、たちまち攻め落とされて二人の兄弟は戦死してしまいました。その後、村人は、べぺ太郎とべぺ次郎をねんごろに葬ってあげました。』

熊野神社(くまのじんじゃ) バス停荒崎下車 徒歩3分
 
熊野神社
熊野神社
 祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、木乃花咲耶媛(このはなさくやひめ)など9神、創建は1192年(建久3年)に源義経の家臣・鈴木三郎重家の長男・家長、長井地区の総鎮守です。
 ちなみに、熊野神社の総元締め、熊野三山の祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)、速玉之男神(はやたまのおのかみ)、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)の3神です。全国にたくさんいる鈴木姓の人々は、熊野三山の社家の末裔ではないかといわれています。
 正面石段の寄進者には、江戸魚河岸の商人の名前があり、当時の長井の商人が江戸と商いで結ばれていたことを物語っています。
 毎年7月15日には飴屋踊りが奉納されます。この踊りは、若衆歌舞伎の形を残す物で、江戸時代末期に房総から漁師によって長井村に伝えられたといわれています。菊名の白山神社でも行われています。
 この神社には、次のような伝説があります。
 『昔々、7月15日に、荒井の浜へご神体が漂着し、漁民に「食べ物をくれー」と救いを求めました。しかし、その年は凶作で神様に献上する米は全くなく、代わりに麦飯にきな粉をかけて神様に飢えをしのいでもらいました。その後、熊野三郎という人がこの神様を勧請し、社を建てました。』

キリシタン灯籠 バス停荒崎下車 徒歩3分
 
 鈴木さん宅内に、高さ75cm、幅30cmほどの花崗岩製で、かなり風化していますが、聖人像が浮き彫りにされています。鈴木家は江戸時代に長井村の名主を務めた旧家で、先祖の誰かがひそかに信仰していたのか、先祖の俳人・鈴木呉雪が庭の装飾品として求めた物ではないかと考えられています。
 個人宅内にあるため、見ることはできません。他に、松輪にもキリシタン灯籠が残っています。

荒井観音堂(あらいかんのんどう) バス停荒崎下車 徒歩3分
 
荒井観音堂
荒井観音堂
 山号は鈴木山長慶寺、宗派は浄土宗、鎌倉光明寺末寺、本尊は聖観世音菩薩、開山は僧の良馨、開基は鈴木家長。昔は、「聞馨院」または、「長馨院」といわれていました。
 三浦三十三観世音札所の、三十一番札所です。
 観音堂は、鈴木家長の子孫といわれるとなりの鈴木さんによって管理されています。鈴木さんの先祖は、源義経の家臣鈴木重家の子・鈴木家長で、長井の領主をつとめていたそうです。江戸時代の鈴木丈吉(呉雪)は、各地の俳人と交流し、境内に次のような松尾芭蕉の句碑を建立しました。
 「海士(あま)の屋は小海老にまじるいとどかな」
 堂内天井の龍の絵は、江戸時代の文人画家『谷文晃』の作といわれています。また堂の裏側には、錫杖(しゃくじょう)までが一つの石で彫られたという珍しい地蔵菩薩があります。

城山 バス停荒崎下車 徒歩5分
 
 荒崎の西南端、小高い山が城山崎といいます。昔、この辺りにお城があったと伝えられています。三浦義明の五男で、長井に住み長井五郎義季と名乗った人がいて、その人の城だといわれています。また、別の説では、次男の三浦義澄の城だともいわれています。
 1247年(宝治元年)の宝治の乱で三浦一族が滅びたあとは、北条氏に味方した同じ三浦氏の佐原光盛の孫・長井八郎左衛門政盛がこの地の領主となりました。
 長井には、番場、屋形、城口(じょうぐち)などと呼ばれる地名があり、城と何か関係があったと思われます。
 江戸末期の1850年(嘉永3年)頃、水産研究所の裏手に、江戸湾防備のため彦根藩によって砲台が築かれました。砲台といっても、大筒1挺が村に預けられていただけのお粗末な物でした。しかし、ペリー来航により海防は強化され、大筒や火薬蔵などが設けられ、漆山には長井陣屋が置かれ、岩国藩士がその任に務めました。第二次大戦で海軍の防空砲台となり、台場の跡はほとんど失われてしまいました。
 また、荒崎の沖合には『唐人船』と呼ばれる暗礁があります。1854年(嘉永7年)ペリー2度目の来航のおり、先発艦マセドニアン号が江戸湾の入口と間違えこの暗礁で座礁し、この名がついたそうです。

三浦半島観光地図:人物事典・三浦義明

観明寺 バス停漆山下車 徒歩3分
 
 山号は海岸山観明寺、宗派は浄土真宗、京都東本願寺末寺、本尊は阿弥陀如来、開基は了空法師、創建は1469年(文明元年)です。
 このお寺は、もともとは鎌倉の弁ヶ谷にありました。しかし、後北条氏の相模国攻めにより、1522年(大永2年)、了念上人の時、長井の荒井の地に移り、山号を美しい海岸から取って海岸山と定めました。鎌倉の観明寺は、戦火によって焼失し、後北条氏の浄土真宗弾圧に耐えかねて三浦の長井に来たと思われます。
 3代住職の時、近くの民家から出火し、堂宇残らず焼失し、1563年(永禄6年)、現在の地に移りました。
 この辺りは、三浦義明の5男・長井五郎義季の本拠地をいわれています。
 三門前には、『蓮如上人御直筆』と彫られた、1726年(享保10年)建立の日があります。境内入口近くに、古い板碑もあります。
 山門横には、『道切り』の説明板が立っています。しめ縄に、藁で作った刀・わらじ・ヘビ、木のサイコロなどをつるして、集落の境の道に張る風習のことで、疫病やその他のよくないものが集落に入らないように防ぐおまじないのような物です。

三浦半島観光地図:人物事典・三浦義明

井上成美邸(いのうえしげよしてい) バス停荒崎下車 徒歩7分
 
 町内会館の建物が井上成美邸です。横須賀鎮守府に着任した1934年(昭和9年)ごろの建築といわれています。
 井上大将は、横須賀鎮守府の参謀長、第四艦隊司令長官、海軍兵学校校長、海軍次官などを歴任しましたが、米内大将、山本元帥などとともに、戦争に反対してきた軍人です。
 戦後、成美は世に出ることを避け、ここで英語塾を開いて余生を過ごしました。

飛行場跡 バス停漆山下車 徒歩10分
 
 高原・大原・小舞原にまたがる広い地域に、1943年(昭和18年)に工事を始め、1945年(昭和20年)に完成しまた。特攻隊飛行基地だったそうです。
 それまでは、勾配のある段々畑でしたが、高原の丘を崩し、土砂を運搬して平坦にしました。工事にはリヤカーを使い、作業は徴用兵があたり、牛馬のように働かされ、精神棒で叩かれて見ていられないこともあったそうです。
 飛行場の完成が終戦直前で、すでに特攻機はなく、偵察機が5、6機あったのみで、飛行機が飛んだのはほんの短い期間だけだったようです。
 戦後、飛行場の大部分は元の地主に返還され、一部はアメリカ軍用地となり、ヘリコプター基地になりました。発着時の騒音は、かなり凄いものがあったそうです。現在は、米軍用地も、全面返還となりました。

経塚 バス停漆山下車 徒歩15分
 
 長井中央の高台に、こんもり木の茂った塚があります。
 1516年(永正13年)、三浦義同と北条早雲が戦ったとき、三浦義同の家臣であった別覆(べぺ)坊が、経巻を埋めて逃れたといわれ、その場所が現在経塚と呼ばれているところです。
 今でも、塚を掘ると人骨が出てくるといわれ、手を着けるとたたりがあるから触らないでいるようです。戦時中、日本軍が飛行場を作る際にも、ここだけは崩さなかったといいます。
 最近の調査では、経文は出ず、前方後円墳ではないかと考えられています。

大久保の庚申塔 バス停漆山下車 徒歩20分
 
 弘誓寺を出て、長井台地へ上る坂を上って、5分くらいの所の坂の途中に庚申塔が祀られています。
 大久保地区には、2カ所庚申塔群がありますが、ここの庚申塔は、いずれも100年以上たつものです。古老の話によると、天然痘やコレラの流行があったとき、村内に流行しないでもらいたいという願いを込めて建てられた塔もあるそうです。医学の進んでいなかった昔は、人間の手に及ばないことは神仏に頼って災難を防ぐしか方法がないと思っていたのでしょう。
 現在でも、お詣りすると病気が軽くすむと信じられています。
 大久保の地名は、台地と台地に挟まれた「窪地」で、広い水田があることから「大窪」の名がつき、それが「大久保」に変わったといわれています。大正末期で戸数32戸の村でした。

家庭の医学:コレラとは?

弘誓寺(ぐぜいじ) バス停漆山下車 徒歩20分
 
 山号は法水山知海院、宗派は浄土真宗、東本願寺末寺、本尊は阿弥陀如来、開山は僧・空信です。
 『皇国地誌』には、1478年(文明3年)、僧・空信開創とあり、『新編相模国風土記稿』には中興開山となっています。当時は、長福寺といい1675年(延宝3年)、今の寺号に改めました。のち、年代はわかりませんが、僧・了覚が再建したと伝えられています。
 昔のなごりの手洗鉢が本堂前にあり、『寛文十二年(1672年)正月十二日相州三浦郡長井郷長福寺』とあります。入口近くには、梵鐘はありませんが、鐘楼があります。
 また、聖徳太子を祀る太子堂があります。聖徳太子は、大工や左官など職人の信仰対象となり、昔は職人仲間で太子講が行われていたようです。
 大久保地区には、ここのお寺しかないので、何かにつけて村の寄り合いに使われたといわれています。

新宿 バス停下車 徒歩分
 
 新宿という地名は、古い集落に対して、新しくできた集落のこと。また、土地を持たない漁師の村という意味も含まれているそうです。
 江戸時代の記録では、長井で一番戸数が多く、賑やかだったそうです。新宿地区のほとんどは、漁業関係者で、現金収入が多く、商人も多く集まり、新しい宿場町ができたと考え、『新宿』といわれるようになったのではないでしょうか。
 ここ新宿地区には、『飴屋おどり』が伝えられていて、昔、飴売りがやって来て伝えられたものだそうです。ここの他に、鴨居や北下浦にも飴屋おどりが伝えられています。

番場 バス停下車 徒歩分
 
 地名の由来は、『三浦古尋録』には、昔馬場があったからとか、館を守る番所があったからとか、船番所があったからとか、いろいろあり定かではないようです。
 番場は、大正初期まで長井の仲町といわれ、戸数110戸くらいで、郵便局、商店、旅館などはあり賑わっていたそうです。
 番場は、大火事のあったところで、1843年(天保14年)仮屋ヶ崎から出た喜八火事、1880年(明治13年)屋形から出た火事、1926年(大正15年)12月の火事が一番ひどく、長徳寺の本堂のみを残し、番場、屋形、東の3地区が灰と化してしまいました。関東大震災でも、大火事が起きたそうです。
 1923年(大正12年)2月、北原白秋と、前田夕暮が、長井に来て番場の旅館藤屋に泊まったそうです。この旅館の女将は浦島千代といい、侠気の親分肌の人で、荒井の熊野神社の下に、世話になった海軍士官の人々が感謝のしるしとして、『烈婦・浦島千代』の碑を建立しました。
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