かつて、難風が吹いたとき、潮がかりの時など、廻船が入ることもあった長井湊は、江戸時代から開かれていた三浦半島西岸では数少ない港でした。常時出入りする船は55艘、押送り船(おしょくりぶね)は20艘だったと記録があります。
江戸時代から漁業が盛んで、採れた魚介類は海上を渡って江戸まで送られていました。
鮮魚運搬船として使われていた押送り船20艘は、三崎に次ぐ規模で、長井が漁業で反映していたことが分かります。押送り船は鮮魚だけでなく、廻船の役割も担っていて、さまざまな物資の輸送にあたっていました。つまり、海上交通の要衝としての機能も有していました。
江戸時代、三浦半島西側の村々の中では、もっとも戸数が多く、商人や医者の多い村でした。
時代の変化とともに長井湊は漁港として発展していき、1960年(昭和35年)に着工された長井漁港の修築事業によって、加工施設や水揚げ施設などの近代的設備を備えた港になり、相模湾沿岸漁業の基地のひとつとなりました。
現在、まき網漁、小型・大型定置網、養殖、潜水漁、一本釣りなど、さまざまな漁業が行われています。
つい最近まで一本釣り漁業が盛んでしたが、沿岸漁業の不振、漁場の拡大の行き詰まりなどから、一本釣り漁業は苦境に立たされています。
漁師独自の調査から開発された深海カゴ網漁によるエビ漁など、未利用漁業資源の開発として注目されています。
長井でツキンボ漁が有名で、カジキマグロなどの大型魚が姿を見せると、着脱式の銛(もり)で突き獲る漁法です。三浦半島では縄文時代から行われており、シカのツノで作られた離頭銛(りとうもり)が出土しています。
長井で古くから行われていた漁法で、和船の時代、カツオやマグロの一本釣りなどに出漁した時、カジキマグロを発見すると銛で突き獲っていました。7月〜8月になると相模湾にカジキマグロが回遊するようになるので、ツキンボ漁に出る船もありました。
大正時代になると漁船の動力化が進み、カジキマグロを追いかけやすくなったので、ツキンボ漁を専門とする漁船も造られ、カジキマグロを追って三陸沖まで出漁しました。
銛持ちの技術に、漁獲量が大きく左右されます。波間に魚影を発見したら、獲物に近付き、「カイモリ」と言う塩漬けにしたサバやイカなどのエサを投げ込みます。カジキマグロがエサに食いついた瞬間は一時的にスピードが遅くなるので、そこで銛を放ちます。エサの投げ方が悪いと、突く前に獲物を逃してしまいます。
また、回遊してくるカジキマグロの魚影を波間で捉える鋭い動体視力も必要です。眼が効く漁師の乗る船は、多くの魚を突くことができるので、どの船も勘が良くて視力の高い漁師を歓迎しました。
長井はツキンボ漁の名人が多く、他人の船超しに銛を投げても、カジキマグロに当てることができるほどの腕前を持つ漁師がいて、いつも大量だったと言われています。荒井の小坪屋という屋号の家には銛の名人がいて、自分の船に迎えようとする船主の間で入札を行うほどの人気で、房州のツキンボ船の船頭として活躍しました。
三浦半島観光地図:横須賀市長井:漆山漁港
三浦半島観光地図:横須賀市長井:新宿漁港
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