長井の海岸集落は相模湾に突出した台地を背に密集していたため、何度か大火に遭っています。
記録に残るもっとも古い大火は1843年(天保14年)1月26日です。
『浜浅葉日記』によれば、仮屋ヶ崎からうどん屋まで焼き払い、母屋132軒、そのほかの家屋を含むと200軒あまりが焼失してしまいました。
さらに、同じ年の11月7日、再び出火があり、20軒あまりが焼失してしまいました。
1880年(明治13年)、民家232軒、土蔵2軒、物置15軒を焼失する大火がありました。
屋形(やかた)から出火し、北西の強風が吹いていたため、屋形、東、番場、新宿と燃え広がり、長井の中心部は1843年(天保14年)の大火から40年後に、再び焼失してしまいました。
この火災によって、江戸時代は浦賀や三崎の次いで栄えていた長井の面影は、失われてしまいました。
1926年(大正15年)12月3日、長井の1/3にあたる234戸が全焼する火事が発生しました。
番場から出火し、西南の強風が吹いていたために、番場、屋形、東の大部分の民家が類焼しました。
大火を何度も経験した結果、現在でも屋形や東の地区には、石造の民家が建てられています。
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