中島山井華院(なかじまさんせいかいん)といいます。
浄土真宗のお寺で、京都本願寺の末寺になります。本尊は阿弥陀如来、開基は行基と伝えられています。長井では最も古い寺院です。
ふるくは天台宗のお寺で、不動を本尊としていました。
長井の海岸に大きな材木が流れ着き、これを見付けた村人たちはめずらしい大木であったため、海岸に置いておきました。不思議なことに夜になると、この大木から人の鳴き声が聞こえるようになりました。
村人の間に噂が広まり、不穏な空気が村に満ちてきたころ、関東各地を修行して回っていた行基が訪れました。さっそくその大木を見てもらうと、徳道上人が大和の長谷寺の観音像を造った残り木であることがわかりました。そこで行基は、この流木から一帯の不動尊像を作り、中島というところに祀りました。
かつて天台宗だったのは、この本尊があったためです。
場所も、大久保地区の中島にあったので、山号は中島山といいます。供える水に不自由していた行基が、宝力によって井戸を掘り清泉を得たことから、井華院といいます。
鎌倉時代に長井の領主だった三浦義澄も、長徳寺の不動尊を厚く信仰していたと言われています
室町幕府の関東管領だった足利氏満の文書が保存されているため、室町時代には関東管領の祈祷寺だったと言われています。
文明年間(1469年〜1487年)、親鸞の門徒だった僧侶の念(ねん)がこの寺に住むようになって、浄土真宗に改宗されたと言われています。
念は室町幕府の五代将軍だった足利義量(あしかがよしかず)の家臣で、義量の死後に僧侶になったと伝えられています。
高さ約1mの石造の手水鉢は、1672年(寛文12年)、長井村の龍崎七郎左衛門が寄進したものです。1761年(宝暦11年)、名主を勤めている先代に当たる人物です。
ポックリ地蔵は、土地のお年寄りが良くお参りしている姿を見ることができます。この近くに火葬場があったことから、ヤキバの地蔵とも呼ばれていましたが、いつの間にかポックリ地蔵と呼ばれるようになりました。
じっくり見れば、地蔵菩薩ではなく、阿弥陀如来だということがわかると思います。
その火葬場は、風向きによっては人家の方へ煙が流れてくることから、住民が迷惑して相談した末、荒崎に移転しました。しかし、地蔵だけはそのまま残されました。
この近くにオコリ石と呼ばれる自然石が小道の傍らにあります。正月飾りが奉納されたり、伝説も伝えられていることから、この石は紙の宿る石神だったと考えられます。
かつて、オコリ石の前を通るときは急ぎ足で通り抜けた、風の強い日は石がうなり出すなどの伝承もあります。
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