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浦賀の渡し


浦賀の渡し

バス停紺屋町下車 徒歩3分
地図
浦賀の渡し
浦賀の渡し

 やっと訪れることができた浦賀の渡船!!
 ずっと前から行ってみたいと思っていたんですが、浦賀って用事がなくて・・・。万引きで捕まって浦賀警察署にしょっ引かれたときくらいしか、来る機会がなかったもので。警察にお世話にならない限り、浦賀には。。。
 えっ!?違いますよ、もう悪いことはしていませんよ。今回は史跡巡りで訪れました。
 現在ではすっかり、東西浦賀を結ぶ浦賀のシンボルとなっています。
 浦賀街道と名付けられており、横須賀市道2073号になっています。
 2016年(平成28年)現在、片道料金200円です。以前は100円じゃなかったっけ?自転車は+50円です。ペットは無料みたいです。

 昭和30年代頃まで、房総半島へ行く連絡船の発着所もありました。「芙蓉丸」、「花丸」という貨客船が就航し、年間20万人以上の人々が利用していました。

その後東京湾汽船株式会社が三崎に進
出する中で、地元民は1882(明治24)年三
崎町魚商荷主同盟を結成し1号三盛丸
(39トン)を建造、さらに三崎町会議員宮
川長五郎を社長とする三浦共立運輸株
式会社を設立、2号三盛丸(60トン)、3号
三盛丸(130トン)を就航させ東京湾汽船
会社に対抗しました。
その後も三浦共立運輸と東京湾汽船の
対立は続きましたが、1917(大正6)年3号
三盛丸の沈没により対立は終わり、やが
て魚類輸送はトラックにとって代わら
れるようになりました。

写真撮影:2009年04月13日

浦賀の渡し

バス停紺屋町下車 徒歩3分
浦賀の渡し
浦賀の渡し

 綺麗な待合室。以前はありませんでしたよね?
 以前と言っても、30年くらい前になっちゃうんだけど(^^;)。学生時代に浦賀の歴史が気になって、自転車で史跡巡りをしたことがありまして。
 その時に見た浦賀の渡船は、もっと小さい船だったと記憶しています。こんな立派な待合室なんてなかったし。

写真撮影:2009年04月13日

浦賀の渡し

バス停紺屋町下車 徒歩3分
浦賀の渡し
浦賀の渡し

 この細いはしけを渡って船に乗るのかー、自分はこういう場所、苦手なんですよー。超絶カナヅチなもんで、海の上ってとても怖いんです。高所恐怖症に似たようなものですね、高いだけの場所は大丈夫なんですが、足元の水面があると怖くてダメです。
 はしけの下に錆びてボロボロになったスロープがありますが、ここが以前に使われていたんだと思います。自転車を乗せるのに、階段を使ったような記憶があります。
 渡船乗り場の周辺、あまりきれいじゃないなって思うかもしれませんが、ものすごく綺麗になりました!!以前はもっともっと、きちゃなかった(^^;)

写真撮影:2009年04月13日

愛宕丸

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕丸
愛宕丸

 お〜い!!
 こっちだぞー!!
 この渡船は全長9.5m、朱色を基調にした船体「愛宕丸(あたごまる)」といいます。西浦賀町にある愛宕山に由来しています。
 1962年(昭和37年)以降、機械船になりまました。以前は伝馬船(てんません)と呼ばれるろこぎの船でした。現在の愛宕丸は2代目で、1998年(平成10年)の浦賀渡船120周年で就航しました。
 デザインは、かつての御座船(ござぶね)と呼ばれた東叶神社の祭礼の際に御輿を運んだ船をモチーフにしています。
 強化プラスチック製で、定員は12人です。

写真撮影:2009年04月13日

愛宕丸

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕丸
愛宕丸

 おっ、きた、きた、きた。
 以心伝心、気持ちが届きました!!

写真撮影:2009年04月13日

愛宕丸

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕丸
愛宕丸

 もうすぐ西浦賀の船着き場に到着です。写真の奥の方に見えるのが、東叶神社ですね。
 いつ開業したのか正確なことはわかていませんが、1720年(享保5年)に浦賀奉行所が設置されて間もない1722年(享保7年)に「当村には、渡船無御座候」とあり、11年後の1733年(享保18年)に書かれた『東浦賀村明細帳』には「渡船の修復の折りには、鴨居村、走水村、内川新田、八幡村、久里浜村も東西浦賀村と相応の協力すること、運賃は村中(東浦賀)のすべての家で一軒あたり米六合づつ」とあるため、1722年〜1733年のうちに創業されたようです。
 修復の際に、近隣の村々にも相応の負担をかけているので、近隣の村人も、かなりと船を利用していたものと思われます。船賃が1軒あたり米6合ずつだとすると、西浦賀でも同じ負担だと思われるので、東西合わせて約1000軒の家があったことから、米の量は約6石(約900kg)で、渡船2隻、船頭2人の生活が支えられる量にと取り決められていたようです。
 1868年(明治元年)、船賃は1軒あたり一律負担ではなく、家ごとに差がありました。
 明治10年代から、東京〜浦賀間での連絡船の運航が開始されました。東京湾汽船会社や三浦共立運輸株式会社が運航し、三盛丸は浦賀を夜に出港し、翌朝に東京に着くので、丸一日東京で仕事ができる重要な交通手段となっていました。
 昭和30年代頃まで、房総半島へ行く連絡船の発着所もありました。「芙蓉丸」、「花丸」という貨客船が就航し、年間20万人以上の人々が利用していました。
 発着所の前は連絡船に乗せる荷物の預かり所があり、待合室は蒸気場と呼ばれていました。
 その隣には、西浦賀を代表する商人たちが集まる一番組の集会所がありました。会合があるときは旦那衆でも、羽織袴に白足袋という正装でなければ入ることができなかった格式ある場所でした。

写真撮影:2009年04月13日

浦賀の渡し

バス停紺屋町下車 徒歩3分
浦賀の渡し
浦賀の渡し

 昭和52年(1977年)市制施行七十周年記念
 横須賀風物百選
 浦賀港と渡船
 室町時代に、聖護院准后道興(せいごいんじゅんこうどうこう)が著した紀行文・廻国雑記(1486年)に「−−−浦川の湊といへる所に到る。ここは昔頼朝郷の鎌倉にすませ給ふ時、金沢、榎戸(えのきど)、浦河とて、三つの湊なりけるとかや−−−」とあります。それが現在の浦賀港を指すものであるかどうかについては、歴史家の間に疑問があるようです。しかし、「浦賀みなと」の名称そのものが、書物の中にみられる最初のものです。いずれにしても、浦賀湊が三浦一族や後北条氏によって使われていたことは確かなようです。
 この良港に注目した徳川家康は、ここを外国貿易の根拠地にしようと考えました。英人ウィリアム・アダムスを逸見に住まわせ、しきりにイギリスやオランダなどの商船をこの港に引き入れるよう努めさせました。
 享保5年(1720年)、浦賀奉行が置かれると、江戸湾に出入りする船は、すべて浦賀で船改めをすることが義務づけられました。そのため、浦賀の町は大いに栄えました。以後、浦賀港は黒船の来航、咸臨丸の出港、日本最初の洋式船鳳凰丸の建造の地として、さらには浦賀船渠株式会社の設立と、ことあるごとに歴史の舞台に登場してきました。
 この港は、湾が約1.5kmも入り込み、東西両岸に住民が往来するのには、渡船を利用することが最も便利でした。したがって、渡船は早くから開かれていたようです。明治9年(1876年)編纂の皇国地誌には「浦賀渡ト呼ブ町往来ニ属ス・・・船二隻ヲ用ヘテ往復ニ使ナラシム私渡ニシテ修繕民費」とあることから、最初は民営の渡船であったようです。大正6年には、その重要性を評価されて、浦賀町営となりました。さらに昭和18年(1943年)4月1日、浦賀町が横須賀市に合併されると、渡船事業も市営になりました。昭和24年(1949年)以後、渡船の運航業務を民間に委託し、現在に至っています。
 また、平成10年(1998年)に就航120周年を記念して新船「愛宕丸」を建造しこれと併せ、全国でも珍しい水上の市道の愛称を募集し「浦賀街道」に決定しました。
 唯一の市営交通事業である渡船で、昔をしのびながら、浦賀港横断をお楽しみください。

写真撮影:2009年04月13日
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