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思っていたよりも、小さな入り口でした。
金剛山自得寺といいます。臨済宗建長寺派の末寺になります。ご本尊は聖観音です。
臨済宗は、中国の臨済義玄を開祖としています、楊岐方会が楊岐派を形成し、黄龍慧南が黄龍派を形成し、曹洞宗と共に栄えました。
日本には栄西(1141年〜1215年)が黄龍派を伝え聖福寺、建仁寺を建て禅の道場としました。その後、俊ジョウ(1161年〜1227年)に楊岐派を伝え泉湧寺を建てました。
現在はおもに14派あり、三浦半島近辺では建長寺派、東福寺派、円覚寺派が多いかな。 |
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山門をくぐると、立派な本堂があります。
気になったのが、信玄餅に描かれている武田菱の家紋。臨済宗建長寺派のお寺なので三角形の三つ鱗なんじゃないかなって思ったんだけど・・・
開山は応永元年(1394年)、聞叟玄令和尚によります。聞叟玄令和尚は、鎌倉五山のひとつ浄智寺の中国から来た明の住職の弟子になります。その後、浦郷村に来て庵を開いたのが始まりとされています。
いつしか廃寺同然となり、毘耶浄賢居士(1480年〜1541年)が中興したと伝えられています。
この毘耶浄賢居士が実は、甲斐武田家の家臣、青木党の武将で青木尾張守信定といいます。当時の武田家は関東管領足利持氏〜足利成氏に仕えたいたことから、主家の命令で浦郷の村に住み寺を建立したと考えられます。
しかし残念なことに、寛永2年(1625年)に、古文書などの資料と共に、寺は焼失してしまいました。
武田菱の家紋が描かれている理由はわかりましたが、北条氏の支配する土地になぜ武田氏の家臣が住み着き、寺を建立したのかは謎のままです。 |
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金色でとても綺麗だったので撮影しました。どこのお寺や神社でも見かけますが何ていうんだろうと思って調べてみたら、そのまんま「扁額」だそうです。
「金剛山」のはずなのに、「補陀山」になってる・・・。たぶん、僕の手持ちの資料が間違っていて、補陀山自得寺が正しいんだと思います。
本堂須弥壇裏に安置されている10体の十王坐像は、横須賀市指定重要文化財となっています。元は雷神社付近の地蔵堂に祭られていたものが、明治時代になってこちらに移転されたものです。
像は10体ども、寄木造彫眼で、像高約38cmの小像で、中国風の道服を着け憤怒相をとる坐像です。しかし、彫技は優れているとは言えず、後世の補修や彩色が施され、損傷も激しく、源初の趣きをかなり損じています。
しかし、変成王の胎内などにある永享5年(1433年)4月という製作年月日、作者林貞家の名などの墨銘、元禄4年(1691年)鎌倉仏師三橋宮内の修理の墨書銘などが知られており、中世におけるこの近在の庶民の十王思想や地蔵信仰をうかがわせる貴重な文化史資料です。
昭和62年に、横須賀市、住職、檀家などの協力で、痛いんでいた十王座像は修復され、元の迫力ある姿に再現されました。 |
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ちょっと変わった形をした五輪塔。よく見てみると、1つの石でできてる。三浦半島ではほとんど見かけない、一石五輪塔です。
他にも境内には、浦郷陣屋で海岸防備の任務に就いていた間に亡くなった、川越藩士のお墓が数基あるそうですが、確認はできませんでした。
三浦半島の歴史:横須賀市追浜南町・鷹取公園(浦郷陣屋跡) |
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