大矢部の歴史
三浦半島の中央部、大楠山から東へ伸びる支山脈の東端に位置します。
小矢部とともに、矢部郷の一部になります。
朝比奈三郎義秀、あるいは三浦義澄が拠ったとされる大矢部城址があります。
江戸時代の村名で、相模国三浦郡の大矢部村です。
寛永10年は幕府領、元禄10年は旗本有馬氏の知行、幕末には幕府領でした。
村高は、『元禄郷帳』、『天保郷帳』ともに290石余、『旧高旧領』では280石余。
『三浦古尋禄』によれば、家数50軒あまり。
『新編相模』によれば、江戸から16里、東西12町・南北11町、家数53軒、飛地が衣笠村にありました。
鎮守は近殿明神社で三浦義村を祭神とします。寺院には三浦義明の廟所である満昌寺、義明の祖父三浦為継の菩提寺の清雲寺、三浦氏の始祖為通および義明の父義継の菩提寺の円通寺、義澄および義宗の菩提寺の薬王寺(現在の清雲字)があり、三浦市ゆかりの土地です。小名深谷の山間には、三浦氏の墓が多数あり、五輪塔が並んでいます。義明自害の地とされる大介腹切り松があります。満昌寺と清雲寺は、天正19年の朱印状に「満昌寺 相模国三浦郡 大矢部郷之内 参石」、「清雲寺 相模国三浦郡 大矢部郷之内 弐石」とあり、それぞれ寺領の寄進を受けています。
農業のほか採薪が行われていましたが、江戸湾防衛強化として大津陣屋・上宮田陣屋が設置されると、天保年間以後は両陣屋間の物資運搬の夫役に従事する負担が多くなりました。
文政4年から浦賀奉行所支配となります。
明治元年、神奈川府を経て神奈川県に所属します。
『皇国地誌』によると、税地は114町9反余うち田25町余、畑15町6反余、山林71町6反余、宅地2町2反余など。戸数63、人口265人、男137人、女128人、牛8、馬9、大矢部学校の教員2、生徒40うち男子31、地味は稲作に適しています。
民業は農業37戸、雑業13戸、商業2戸など。女は農間に採薪するもの80人、木綿糸布織など48人。物産は浦賀町・横須賀町に輸送しました。
明治22年、衣笠村の大字の大矢部となりました。
明治24年、戸数54、男165人、女144人。
昭和8年、横須賀市の町名となり、大矢部町となりました。
昭和42年、一部が森崎1丁目〜4丁目となりました。
昭和50年、横須賀市の町名となり、大矢部となりました。一部が大矢部4丁目となりました。
昭和53年、残余が大矢部1丁目〜6丁目となりました。
昭和56年、人口6564人、うち男3313人、女3251人。
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地名の由来
矢竹を貢物にしていたことから。
また、アシなどが生い茂っていた地から「藪」と呼ばれていたものが、矢部に転訛しました。
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