大津町の歴史
三浦半島の東部、東京湾に臨む平地に位置します。
波の静かな遠浅の海岸で、風光明媚な地として知られていました。『横須賀甚句』には、「大津、馬堀の大波、小波、夫婦波かよ仲の良さ」と謳われ、綺麗な砂浜が堀ノ内から馬堀まで続いていました。春は潮干狩り、夏は海水浴で賑わい、東京方面からも避暑客が訪れました。
また、漁業も盛んでした。
戦国時代から確認できる地名で、相模国三浦郡の大津です。
『役帳』に、小田原北条氏の半約被仰付衆で高橋寄子十人の所領役高として「百吾拾貫文 大津」とあります。
江戸時代は三浦郡の大津村です。
寛永10年は幕府領、元禄10年は上野前橋藩領、幕末は幕府領です。
村高は、『元禄郷帳』、『天保郷帳』、『旧高旧領』ともに759石余です。
延宝2年、江戸本材木町新肴場の附浦となり、漁獲物はすべて新肴場へ送ることとされました。
浦賀奉行所の開設にともなって、天保13年、武蔵川越藩主松平斉典によって沿岸警備のための陣屋が造営されました。以後、肥後熊本藩、下総佐倉藩へと引き継がれ、慶応3年には浦賀奉行所の支配下となり、明治元年に新政府に移管されたのちに撤去されました。この間、陣屋の米搗、建物の補修・清掃、薪・乾草の納入、炊事など雑役および人馬の供出は村の負担となりました。熊本藩細川家時代の陣屋に常駐した部隊は約800人でした。
『三浦古尋禄』によれば、文化年間は家数260軒余でした。
『新編相模』によれば、江戸から16里、東西1里・南北16町余、家数261、漁船31、鎮守は諏訪社、寺院に向井将監ゆかりの臨済宗貞昌寺、正観寺、浄土真宗信証寺、浄土宗浄林寺、信楽寺があります。諏訪社では明治に至るまで三浦相撲の奉納が行われていました。
鎌倉から浦賀への往還に位置し運輸の便が良く、浦賀奉行所の時代には小名矢の津に銚子屋・小川屋などの旅館兼料理屋があり繁盛していました。
明治元年、神奈川府を経て神奈川県に所属しました。
『皇国地誌』によれば、税地は232町7反余のうち田56町6反余、畑66町6反余、山林97町3反余、宅地11町6反余など。明治9年の戸数364、船数69、南東矢の津山の丘陵を負い、堀合川の流域に田畑が開けていますが天水中心で干害を受けやすかったです。このため、村内には8つの溜め池がありました。
民業では農業280戸、商業25戸、漁業28戸、横須賀造船所で働く者10戸、農間に女性で薪採りする者840人、商いする者36人。物産は浦賀町、横須賀町へ送りました。『武甲相州回歴日誌』では、横須賀から大津村にかけて「絶壁埴土ノ尤多キ処アリ、磁器ヲ製スベシ」と記し、大津村から鴨居村にかけては漁家が多いとあります。
明治22年から浦賀町の大字となりました。
明治24年、戸数520、男1131人、女1147人。
昭和18年からは横須賀市の大字となりました。
昭和25年、一部が三春町1丁目〜6丁目、公郷町1町目〜6丁目になりました。
昭和29年、一部が大津町1丁目〜5丁目、池田町1丁目〜5丁目、根岸町1丁目〜5丁目、馬堀町1丁目〜4丁目になりました。横須賀市の町名、大津町になりました。
昭和31年、一部が浦賀町1丁目〜7丁目となりました。
昭和39年、残余が走水1丁目〜2丁目となりました。
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地名の由来
東京湾に臨む渡し場のこと。
「大」は「小」に対してのもので、多いを意味します。「津」は海、船着き場を表します。多くの船が集まる渡し場だったと思われ、古くから房総半島への渡津、浦賀への往還などの役割を果たしてきました。
大津という地名は全国にあり、同じような由来を持っています。
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