横須賀水雷学校の校門です。二人の衛兵が校門前に立って警備をしています。怪しい侵入者やスパイがいるかもしれない・・・
学校前は、どうして瓦礫だらけなんだろう。太平洋戦争中で空襲や、軍事関連施設を守るために、建物疎開などがあったのでしょうか?今まであった物が取り壊された、そんな印象をこの写真からは受け取れます。
学校の入り口には、建物が立っていたら都合が悪いのかな?
1893年(明治26年)、士官に対する水雷術教育の場として「水雷術練習所」を設置したのが始まりです。1907年(明治40年)に従来の水雷術練習所・砲術練習所をそれぞれ水雷学校・砲術学校に改編し、少尉に対する普通科教育を実施しました。山本五十六や嶋田繁太郎ら兵学校第32期卒業生が最初の対象者となりました。学生は半年交代で水雷学校普通科と砲術学校普通科を必修する形式となっていました。
水雷術専攻を目指す大尉〜少佐級の中堅士官に対しては高等科を設置。駆逐艦や軍艦の水雷長や水雷艇長を務める士官が志願、または推薦で入門しました。海軍大学校甲種学生に匹敵する待遇を受けられるため、大学校に入学できなかったハンモックナンバー下位の水雷術経験者がステップアップを図るために入学を希望しました。
水雷学校の教育は、無線電信の導入にともない、通信・暗号技術の希望者に対する教育を追加しました。やがて1930年(昭和5年)6月に独立し、海軍通信学校の開校と同時に継承されます。あまり人気がなく細々と研究が行われていた対潜戦術・機雷敷設術についても、1941年(昭和16年)4月にようやく海軍機雷学校(1944年3月に「海軍対潜学校」に改称)が開かれて移譲されます。水雷学校から派生して増設された教育機関があり、海軍通信学校が開かれた当初は、水雷学校幹部が通信学校幹部を兼ねることも多く、砲術学校に比べると他の術科との交流は盛んでした。
砲術学校の卒業生の多くは、軍艦水雷長や駆逐艦長・潜水艦長・掃海艇長・水雷艇長・水雷団幹部・軍艦艦長を経て、水雷戦隊司令官・潜水戦隊司令官・戦隊司令官・水雷団長・艦隊司令長官へと昇格しました。校長の中には、日清戦争と日露戦争で陣頭指揮を執った鈴木貫太郎大将や、地中海の船団護衛で実践を経験した長沢直太郎中将などがいます。自らの意思で航空雷撃の実践を推進して航空畑に移った松山茂中将や小沢治三郎中将も、水雷専攻で歴代校長に名を連ねています。 |