そらいろネット > 三浦半島観光地図 > 横須賀市 > 安浦町 > 赤門
左右に長い棟を持つ長屋造りとなっていて、朱塗りだったことから赤門と呼ばれています。 この長屋門の主だった長嶋家は、三浦氏の子孫と伝えられています。先祖に当たる人たちは、南朝の新田義貞や楠木正成らとともに、北朝の足利尊氏らとも戦っています。戦国時代には小田原北条氏の支配下にあって、漁業関係の浜代官を務めていました。さらに、江戸時代には三浦郡の総名主を務めたほどの家柄なので、この門の建築を許されたものと思われます。 人物事典:三浦一族 代々、庄兵衛と名乗っていたので、「田戸庄」と呼ばれていました。 寄棟造りで、腰はなまこ壁という長屋門です。間口八間(約14.4m)、奥行き二間(約3.6m)の木造瓦葺で、中央が平屋、両側が2階建てになっています。2枚の門扉はケヤキ材で、江戸時代のものといわれています。他の部分は、何度か修理されています。 この赤門の伝来についてはいくつかの説があり、ひとつは鎌倉八幡宮寺の赤門といわれていた山門を浦賀に移し、その後、ここに移されたといわれています。また、大津陣屋が閉じられた時、その正門を永島家へ払い下げられたとする説があります。 三浦半島観光地図:鎌倉市雪ノ下・鶴岡八幡宮 武家屋敷などでは、主家を防衛するために、屋敷の外郭に家来のための長屋を建てて、その一部分を門としました。門の屋根と、家屋の屋根を一連にした形の建造物を「長屋門」と呼び、この赤門も長屋門のひとつになります。 初めは上級武家の門で、建て方も複雑堅固なものでしたが、後に武家以外の者でも、特に功労のあった家などには、出窓や出格子のない簡素な長屋門の建築を許されました。 明治27年、東京精行社(せいこうしゃ)から出版された銅板画『日本博覧図第拾編』にある「永島庄平絵邸宅」を見ると、大きくて立派な屋敷であったことが良くわかります。 古い屋敷は、現在地から京急の線路のある山側にかけて、十数棟の建物や庭園が造られていました。母屋は茅葺平屋で、軒先が瓦葺となっていて、18畳の広間を中心に20もの部屋があり、屋内外に3つも井戸がありました。 1929年(昭和4年)、島崎藤村が永島家を訪れました。ザ・タワー横須賀中央(旧西友)のあった場所の魚勝で知人の結婚式があり、それの取材に訪れたと言われています。 島崎藤村の名作『夜明け前』に詳しく書かれていますが、永嶋家(小説では山下家)と島崎藤村の島崎家(小説では青山家)は、ともに三浦一族の末裔で、作品の主人公青山半蔵(藤村の父正樹がモデル)が木曽から江戸へ出る途中、青山家の祖先である山下家のある公郷村に訪れています。 永嶋家第三代の正義(まさよし)の弟正胤(まさたね)が、島崎姓を名乗り、島崎家の先祖となりました。 『夜明け前』では、青山半蔵らが当時の田戸の様子を、「木曽の山の中で想像していたとは大違いなところだ。長閑(のどか)なことも想像以上だ。ほのかな鶏(とり)の声が聞こえて、漁師達の住む家々の屋根からは、静かに立ち昇る煙をみるような仙郷(せんきょう)だ」と書かれています。 人物事典:島崎藤村 ここの近くには、浦賀行きの乗り合い場所の発着所があり、立場(たてば)と呼ばれていました。 明治30年に営業が始まり、当初は平坂下から浦賀へと出発していましたが、明治40年頃にこちらに移転しました。午前6時〜午後8時まで20分おきに発車し、運賃は12銭、雨天のときは15銭でした。昭和3年まで営業を続けていました。 右手隅には1862年(文久2年)に建てられた円柱形の道標があります。三浦半島では道標自体がめずらしいのですが、円柱形の道標はより一層めずらしいですね。 「右、大津、浦賀道」、「左、横須賀、金沢道」、「久郷村之内大田津」と刻まれています。 この道標から、三浦郡田津郷の名がわかり、田津が田戸へと変わっていったこともわかります。田津という地名は、正徳寺の本尊阿弥陀如来像の胎内に書かれている銘文でも確認することができます。 三浦半島観光地図:横須賀市田戸台:聖徳寺 この道標の前の道が、かつての浜通りでした。当時の主要道路で、明治時代末期までは、白砂青松を連ねた海に面していました。いちよ浦賀道とされていますが、普通は江戸に向かう場合、航路を利用していました。 海に面していたため、波が荒いときはしぶきを避けるように走り抜けたり、長嶋家の庭を通してもらったりしていました。 大正時代になって大規模な埋め立てが行われて安浦町が誕生し、関東大震災後に現在の聖徳寺坂ができるなどしたため、往時の失われてしまいました。
横須賀の名家といえば、なんといっても永嶋家でしょう。 そして、有名な史跡が赤門です。 現在ではすっかり観光地となった横須賀ですが、観光地のないころは、赤門は由緒正しき歴史的観光名所でした。
横須賀風物百選の中のひとつ、赤門です。かつて朱塗りだったことから、「赤門」と呼ばれています。 Tourist Information & Historic Spot. Akamon, Yasuracho, Yokosuka City, Kanagawa, Japan.
私が最初に訪れたのは、平成になってからです。 それまでは、赤門の存在は知っていたんですが、どこにあるのか良くわからず、近くまで来ても見付けることができない状態でした。 ちょっとわかりづらい場所ですよね。
とっても立派な長屋門でございます。 赤門と言われていますが、以前は赤くなかったって言われています。 江戸時代、朱塗りの門を造るのは大名などの特定の家以外では、許されいなかった気がします。
海鼠壁も美しいですね。 ちょくちょく修復もされていて、管理は大変なようです。
1862年(文久2年)に建てられた円柱形の道標です。三浦半島では道標自体がめずらしいのですが、円柱形の道標はより一層めずらしいですね。 「右、大津、浦賀道」、「左、横須賀、金沢道」、「久郷村之内大田津」と刻まれています。 ここの通りが、かつての海岸沿いの主要路になります。
赤門のすぐ裏側あたりにあります。フェンス越しに歩けば、すぐに見付かります。 赤門そのものが、少しわかりづらいところにありますが・・・ 海が近かったからでしょうか、痛みの激しい庚申塔が多いようです。特に真ん中の庚申塔は文字が剥がれてしまいそうな状態になってしまっています。 一番左奥の庚申塔は、前後に1基ずつ並んでいるみたいです。手前の小さいのは、真ん中あたりで折れてしまったのかもしれないですね。
安永2年に建てられた庚申塔です。非常に激しく痛んでいます。皮一枚で繋がっているとは、まさにこのことを言うのではないかという状態です。 こういう状態を目の当たりにすると、ペロンと剥がしたくなってしまいますが、罰が当たると怖いので写真だけ撮っておきました。だって、次にきた時はすでに剥がれ落ちているかもしれないし・・・ 石碑というのは、1つの石から掘り出して作るものじゃないのかなぁ〜?石の周りに漆喰やセメントのようなものを塗って、そこに文字を彫っているように見えます。