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            | 山号は吉井山といい、浄土宗のお寺です。鎌倉にある光明寺の末寺にあたります。ご本尊は阿弥陀三尊です。 創建は1534年(天文3年)とのことです。
 本堂は創建当時(1522年)のもので、鎧戸がある重厚な造りとなっています。
 本堂内には、幕末期に安房(現在の千葉県)の彫師・武志伊八(たけしいはち)が彫った、透かし彫りの両面欄間があります。
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            | 本堂左脇には地蔵堂があり、地蔵尊が安置されています。三浦古尋録によれば「枕返し地蔵」と書かれています。枕返しとは、夜中に枕元にやってきて枕をひっくり返すいたずら好きの妖怪のことです。 別の資料では、「そうめん地蔵」と書かれています。日光のそうめん滝から真福寺に移されたお地蔵様で、願をかけた人がお礼にそうめんを供えたことから「そうめん地蔵」と呼ばれるようになったそうです。
 ちなみに、そうめんは素麺と書き、小麦粉を練って作った乾麺の一種です。
 写真の6体の地蔵尊は新しく作られたもののようです。
 眼病に効くといわれている、両面地蔵もあるそうです。3体あるそうです。
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            | 明らかに神社と同じ造りをしている観音堂があります。浦賀にあった稲荷社を移築したものだと考えられています。 三浦三十三観音の第十五番札所になっています。観音堂には聖観音像が安置され、午・丑の年にご開帳されます。
 前立ちの赤子を抱いた観音様は、「マリア観音」、別名を「抱児観音」と呼ばれており、キリスト教との関係を暗示させる観音像となっています。1628年(寛永5年)の作で、秘仏とされています。
 立膝をした脇の衣類の裾にはキリストを表す魚の形が付けられています。キリスト教が禁止されて以来、子育て観音を聖母マリアに見立てて密かに信仰が続いていたので、このマリア観音もキリスト教の信仰の対象であったものと考えられます。
 浦賀の廻船問屋三次家(江戸六)が密かに持ち込んだものとされています。江戸六家代々のお墓も観音堂左脇にあり、墓石の上面には対角線の×印が彫られてあります。おそらくは十字架を意味し、隠れキリシタンの一家であったと思われます。1600年代初頭までは、浦賀にも修道院がありました。
 格天井には花、鳥、魚などの絵が描かれています。葛飾北斎の作風と良く似ていて、葛飾北斎の流れをくむ画家の絵であるということです。
 
 
  三浦半島の歴史:人物事典・葛飾北斎  |  
 
          
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            | 墓地には、浦賀の廻船問屋などのお墓があります。墓地には浦賀地区の檀家が多く、御林を越えて真福寺までお墓参りに来ていたそうです。 浦賀からの往来のために、馬が利用されていたものと思われます。その馬の労をねぎらうためなのか、馬を供養するためのものなのか、馬頭観音が立てられていました。
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