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高坂小学校奥から、真福寺への山林を御林(おはやし)といいます。浦賀奉行所が管理していた幕府の御用林でした。
江戸城が火災で焼失した際、この御林からも大木が切り出されたと伝えられています。
椎の木が陽光を遮り、江戸と浦賀を結んでいた当時の浦賀道の面影を良く残している場所です。
でもここで、僕なりに少し疑問が発生。木材が切り出されたとされていますが、見たところこの林はブナ科の植物と竹がほとんどを占め、薪や炭の材料とする木材であり人の手によって管理された里山なので、わざわざ切り出すほどの大木があったのかどうか。薪炭ならば、江戸でいくらでも取れるはずだし・・・
もうひとつ、江戸と浦賀は陸路ではなく、海路によって結ばれていたはず。浦賀道というのは当時の人々の生活路であって、江戸と浦賀を結ぶような街道ではなかったはずです。
身近な植物図鑑:ブナ科の植物
身近な植物図鑑:イネ科の植物 |
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峠の辺りを、「かんのんやま」といい、高坂側の坂道は「六部坂」と呼ばれています。
浦賀の人々は、この坂道を通って真福寺へお墓参りに通っていたそうです。
御林の道を浦賀方面に進んでいくと、天女水の碑があるそうです。坂道を登り疲れてそこまで行くことができませんでしたが(^^ゞ
昔は弁天堂があり、そのすぐ脇から清水が湧き出て、どんな日照りでも枯れることなく水田を潤していたとのことです。
それ以上に注目すべきは、この碑文で、加藤山寿によるものです。加藤山寿は三浦半島の郷土史研究には欠かせない資料のひとつ「三浦古尋録」の著者です。
歴史人物事典:加藤山寿 |
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青面金剛(しょうめんこんごう)が刻まれた3基の庚申塔。
吉井で見かける庚申塔には、ちゃんと参拝したり、綺麗に管理したりしている人がいるみたいですね。どこの庚申塔にもお供え物が置いてありました。こういった光景を見ると、失われていない歴史が残っているんだなーと思い安心できますね。
このあたりの地区の風習なのかわかりませんが、藁の上にミカンなどの柑橘類がお供えされていました。 |
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