|
茅山式土器と呼ばれる土器です。底面が尖っていないのは、食べ物に火を通すための土器ではなく、貯蔵するための土器だったと考えられています。
縄文時代早期後葉の条痕文土器群です。ハイガイやアカガイなどの肋脈のある二枚貝の貝殻によって土器の裏表に模様が付けられています。繊維痕を残すことも特徴です。1000年以上もの間作り続けられたと考えられています。土器形式でいえば、子母口式土器、野島式土器、鵜ヶ島台式土器、茅山下層土器、茅山上層土器と続き、それ以降の後半段階とに分けることができます。
吉井貝塚は、縄文時代〜弥生時代にかけての遺跡で、南西方向に伸びた標高約20mの低い台地上と、斜面にあります。台地西側が吉井第一貝塚、北側が吉井第二貝塚です。
平安時代末期には、台地全体が山城である怒田城跡(沼田城とも)でもありました。三浦大介義明の本城である、衣笠城の出城的存在の城です。源平盛衰記で衣笠城が攻められた時には、和田義盛は要害である怒田城に籠城して戦うことを主張しています。
現在では想像も付きませんが、当時は入り江が奥深くまで入り込んでいたので、軍船の根拠地となっていました。このことから、舟倉という地名ができたと考えられます。
三浦半島の歴史:人物事典・三浦義明
三浦半島の歴史:人物事典・和田義盛
|
|
吉井第一貝塚から出土した、尖頭骨器です。尖頭器とは、ヤリの先端に付けて、狩りをするために使用したものです。
吉井第一貝塚は、昭和35年に横須賀市博物館によって発掘調査が実施されました。貝層の堆積は2mにもおよび、縄文時代早期から中期にかけての土器、石器、骨角器等が多量に出土し、当時の文化内容を明らかにするうえで多大の成果を収めました。
吉井第二貝塚もほぼ同様な時代、内容を持つ、きわめて保存の良好な貝塚でした。その東側には縄文時代前期、中期の住居跡も確認されています。
三浦半島の歴史:横須賀市深田台・横須賀市自然人文博物館 |
|
吉井第一貝塚から出土した、骨製釣り針です。正式には、骨製釣鈎と書かれるみたいです。
対岸約800mの位置にある県指定茅山貝塚とは、時期において一致するところもあり、遺跡相互の比較研究のうえで重要な位置を占めています。
縄文時代は集落での定住生活といっても、一人一人は頻繁に移動を繰り返しながら生活をしていたので、茅山貝塚にも頻繁に通い、さまざまな交流があったものとおもわれます。
三浦半島の歴史:横須賀市佐原・茅山貝塚 |
|
吉井第一貝塚から出土した、針形骨器です。何に使われていた物なのか、さっぱりわかりません(^^ゞ。ドングリの殻から実を取り出すために使ったのかな? |
|
吉井第一貝塚から出土した、深鉢形土器です。特にこの形式の土器は、茅山上層式土器と呼ばれています。
時代が進むにつれて、尖底土器から、平底土器へと変化していきました。これと同時に、文様としての縄文の発達、定型化した竪穴式住居の普及、住居内の炉の一般化などの、新しい文化的な動きも加わりました。 |
|
吉井第一貝塚から出土した、深鉢形尖底土器です。特にこの形式の土器は、粕畑式土器(かすはたしきどき)と呼ばれています。
底の尖っている土器は、縄文式土器を大きく特徴付けるものです。多くは高さが20cm〜30cmの小型のものです。地面に突き刺して、煮沸用に使われていた土器です。 |
|
吉井第一貝塚から出土した、土錘です。どすいと読みます。
土錘とは、漁業のときにオモリとして使うものです。土器で作られています。通常は穴が開いていたり、糸を引っ掛ける溝のようなものがあります。時代が進むにつれて、大型化していきます。
土錘にしては、かなり単純な作りに見えます。 |
|
|