13歳から名主見習いとして公職に就く |
小川茂周は、1835年(天保6年)、大津の池田で生まれました。通称は、三郎右衛門といい、大津村の有力農民でした。
1848年(嘉永元年)、13歳で大津村の名主見習いとして公職に就きました。その後、大津村名主、水夫人夫差配賄方、農兵世話役、三浦郡大惣代などを務め、幕末の激動の時代を三浦半島のリーダー的存在として活躍しました。
10歳代〜30歳代にかけてこれだけの仕事をしていることには、驚かされます。
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初代三浦郡長に就任 |
明治維新後、1871年(明治4年)、行政区画として区が設置されました。三浦郡の77ヶ村が10区に区分され、小川茂周は第2区の、大矢部、岩戸、小矢部、森崎、池上、金谷、上平作、下平作、大津、鴨居、走水の11ヶ村の戸長となりました。
1873年(明治6年)、区画改正では、第15大区42ヶ村の区長となりました。
1878年(明治11年)、新しい郡町村制が敷かれ、初代の三浦郡長となりました。 |
小川町の埋め立て工事 |
横須賀方面への生活物資移入の基地として、また、横浜・東京からの旅客の玄関口を確保するためもあり、白浜を埋め立てて港を造ることを主張しました。
こうして埋め立てが行われ、現在の小川町ができました。町名には、主唱者の小川茂周の名前から、「小川町」と名付けられました。
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教育問題に熱心に取り組む |
三浦郡長となった小川茂周は、席を温める暇もないほど忙しく駆け回り、その手腕は高く評価されました。
なかでも教育問題にはとても熱心に取り組み、1883年(明治16年)、教育の統一を図る目的で、三浦郡教育会を設立し、初代の会長に就任しています。
教員の養成、義務教育に向けて児童の就学督励などにも努力しました。 |
久里浜村誌 |
1917年(大正6年)に刊行された『久里浜村誌』という本があります。これはペリー来航時の感想として、とても面白くもあり、当時の人々の生活をうかがわせる興味深い逸話が収録されています。時代小説などでも登場してくる話です。
ペリー来航時、小川茂周は18歳でした。以下にあげる逸話は、文献などには残りにくい当時の人々の感覚を教えてくれる資料となっています。
以下のようなペリー談話は、「小川の専売」とまで言われていました。海軍大臣や、内務大臣などを歴任した西郷従道や、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)などにも、ことあるごとに自慢げに語っていたとのことです。
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白いロウソクの話 |
小川茂周は、黒船の中で見たロウソクの白さに驚き、1本もらって帰りました。
和蝋燭は、ウルシ科の植物、ハゼの木の実から搾り出した木蝋(もくろう)を加熱して、和紙とイグサを使って作った芯に手作業で塗り固めていったものです。よって、断面は年輪状になっています。時代劇などで、チョウチンの中に入っているロウソクを見たことがあると思いますが、それが和蝋燭と呼ばれるものです。
一方、西洋で使われているロウソクは、ミツバチの巣から採れる蜜蝋から作られていました。蜜蝋は黄色いので漂白して使っていたのかもしれません。そうでなければ、マッコウクジラなどから採る獣脂を原料とするロウソクだったのかもしれません。型から作るので、一度にたくさん作ることができます。ちなみに、ペリーが日本に来航した目的も、油の原料となるマッコウクジラの捕鯨のためです。
話がそれましたが、せっかくもらってきたロウソクですが、友人達にねだられて少しずつ分け与えているうちに、家に持ち帰るころには一寸(3センチ)程度になってしまったそうです。
しかし、その短いロウソクは大切にしていたとのことです。
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ハンモックの話 |
黒船の船内では、ハンモックで寝ていた水兵がいました。それをみた小川茂周は、何かの罰則でハンモックに吊り上げられていると思ったとのことです。
ハンモックは元々は、南アメリカの先住民達が睡眠中に虫に刺されたりしないために使っていた寝具です。第二次大戦ごろまで軍艦の寝床はハンモックでした。また、指揮所やマストの根元などに土嚢のようにして巻き付けられているのもハンモックで、砲弾の破片を吸収するために使われていました。
ちなみに管理人はバランス感覚に乏しく、ハンモックに寝転がるとハンモックが回転してドテンッと落っこちてしまうため、あまり好きではありません。
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姿見鏡の話 |
黒船の船内で、自分と良く似た姿をした人物がいることに気が付きました。誰だろうと思い、前に進んでみて激突しそうな距離まで近付いたら、やっと鏡だということがわかりました。
当時の日本で使われていた鏡は、金属を磨いて加工したものか、ガラス製でも20cm程度の小さなものでした。板ガラスを作る技術がなかったため、大きな鏡を見て驚いたものと思われます。 |
大砲の話 |
日本の大砲と、黒船に積まれている大砲とを比較して、その違いに驚き、愕然としたそうです。
日本で作られていた大砲は、鋳造で作る青銅製の大砲か、鍛造で作る鉄製の大砲しかありませんでした。青銅製の大砲は爆発の危険性があり、口径が大きい割りに威力は小さく、鉄製の大砲は鍛造で作るため口径の小さな大砲しか作れませんでした。日本に大砲が伝来したのは1614年ごろです。争いごとのない太平の世の中であったため、1614年(慶長19年)大阪の陣と1637年(寛永14年)島原の乱で使われた程度です。ですので日本では大砲製造の技術は発達しませんでした。
黒船に搭載されていた大砲は、パロット砲、ダルグレン砲、カノン砲あたりかな? |
ポンプの話 |
黒船に水を供給することになりましたが、どのようにして水を積み上げればいいのか思案していたところ、黒船から大きな縄が降ろされて、あっという間に伝馬船の水を吸い上げたとのことです。
伝馬船は小型の木造和船です。通常は1本の櫓を使ってこぐボートのような小型船です。
黒船には蒸気を使ったポンプでもあったのでしょうか?当時の日本にあったポンプといえば、火消しが使う消火用ポンプ程度だったのかもしれません。 |
生涯のほとんどを公職に捧げる |
1902年(明治35年)、67歳で亡くなりました。生涯のほとんどを、公職のために費やし、三浦半島の近代化に大きく貢献しました。お墓は、横須賀市大津町の信誠寺に建てられました。
1914年(大正3年)、功績が認められ、衣笠公園に記念碑が建てられました。
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