浦賀奉行に就任したばかりの初鹿野伝右衛門信興(はじかのでんえもんのぶおき)。
1787年(天明7年)に浦賀奉行に就任し、1788年(天明8年)〜1791年(寛政3年)には北町奉行にも就任しています。浦賀奉行時代、質素倹約の業績が評価され、1787年(天明7年)から行われている松平定信の寛政の改革の影響で、江戸北町奉行に抜擢されました。ここでも、庶民の風俗の取り締まりなどで活躍した人物です。
しかし、1791年(寛政3年)には死亡が確認できるので、過労で亡くなったのかもしれません。江戸北町奉行になり、官位は従五位下、河内守になりました。
浦賀奉行に就任したばかりのころ、浦賀の町を巡視した際、江戸屋半五郎の遊郭が目に留まり、共の者に何をする場所なのか尋ねました。
共の者はかしこまって「洗濯屋でございます」と答えると、「洗濯屋がこんなに贅沢で華美な建物である必要はない!」と言いました。さらに、「かような洗濯屋などあるから、人々の心を惑わし、おごりを増長させるのだ。即刻、取り壊しじゃ!」と続けました。
当時の洗濯屋は、現在のクリーニング屋ではなく、遊郭のことをいいます。 |