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後藤利兵衛


千葉県出身

 利兵衛は1815年(文化12年)、安房国朝夷郡北朝夷村(現在の千葉県千倉町北朝夷)で生まれました。幼名は「若松」と言います。
 父親は、山口弥兵衛といい、大工を生業にしていました。幼少の頃から大工道具が身近にあり、14歳のころには地元の愛宕神社に残されている大黒天像などを彫りました。すでに才能あふれる少年だったようです。
 1837年(天保8年)、23歳の時に江戸京橋の彫刻師・後藤三次郎恒俊の弟子になりました。恒俊が鴨川市の誕生寺に訪れた際、門弟になったようです。師匠の後藤姓をもらって「後藤利兵衛光定」を名乗りました。

叶神社の焼失

西叶神社
西叶神社
 利兵衛が江戸に弟子入りした1837年(天保8年)2月1日、叶神社の拝殿と本殿は火災によって焼失してしまいました。
三浦半島観光地図:横須賀市西浦賀・西叶神社
 当時、六十六代の法印実如という人物がおり、これまで以上に立派な社殿の再建計画が進められました。約3000両もの大金をかけて再建することが決定し、社殿内外もこれまで以上に豪華な彫刻装飾を施すことになりました。
 そこで白羽の矢が立てられたのが後藤利兵衛でした。社殿の再建は1840年(天保11年)3月から始まり、彫刻も同時期にはじめられたと考えられます。

叶神社の彫刻

西叶神社
西叶神社
 1842年(天保13年)、利兵衛が28歳の時に社殿は再建されました。
 社殿の正面階段の上に張り出した向拝(こうはい)と呼ばれるひさしのようになっている部分、向拝柱(向拝の屋根を支える左右の柱)などに、見事な彫刻が施されています。
 松に鶴、梅に鶯(うぐいす)、菊花、玉取竜。そして向拝の格天井には二十八態の竜があり、訪れた人々は度肝を抜かれたに違いありません。
 これらの作品は、現在でも利兵衛の出世作として評価されています。さらに、彼の生涯を通じて最高傑作とも言われています。

三浦半島の3つの町

 江戸時代の終わりごろ、三浦半島には3つの町と、75の村がありました。
 西浦賀、東浦賀、三崎の町は、経済や文化の中心地でした。江戸や上方(関西)と海上交通で直接結ばれていたので、東西の影響を受けて発展していった街です。
 後藤利兵衛の残した彫刻があるのも、西浦賀の叶神社です。
 入船・出船で賑わった当時の様子は、現在でも町に残されています。一度は訪れてみるのも良いのではないかと思います。

故郷に帰って他界

 後藤利兵衛は相模国を中心に仕事をし、京都や鎌倉でも多くの作品を残しています。木目を生かした迫力のある彫刻が特徴です。作品には自分の銘を入れているのも特徴です。
 結婚後、42歳になって生まれ故郷の千倉町に戻りました。そして安房国を中心に活動するようになり、館山市では多くの作品を残して、2015年には生誕200周年祭が行われました。寺院の彫刻のほかにも、山車や神輿、個人宅の欄間なども手がけました。「安房の三名工」とも呼ばれるようになりました。
 三浦半島よりも、房総半島で有名な人です。
 1902年(明治35年)4月22日、88歳で亡くなりました。お墓は千葉県千倉町寺庭の西養寺にあります。
 多くの門弟を育て、「安房後藤流」や「房州後藤流」と呼ばれる一派を作りました。弟子の多くも、後藤姓を名乗りました。
 後藤利兵衛義光の生涯については、西叶神社の宮司・感見武さんらによってまとめられた『叶神社誌』に詳しく書かれています。
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