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藤倉


藤倉ってなに?

 
 仲間たちで明治時代の絵図を見ていたとき、みなが一様に「藤倉ってナニ?」って話になりました。
 藤倉と書かれてある場所には、横須賀製鉄所の施設と同じくらい巨大な建物がありました。立派な門があり、てっぺんには街灯まで飾ってあるようなモダンなデザインになっていました。
 そこで私は、「倉」って付くから、代官とか偉い人が財をため込む蔵だったんじゃない?だって、デカイじゃんとか、テキトーなことを言っていました(^_^;)
 でも心の中では、フジの花が綺麗に咲く庭園なんじゃないのかなとか考えていました。だってちょうど、フジの花が綺麗に咲いてたんだもん。

藤倉

京急汐入駅下車 徒歩数分
地図
藤倉
藤倉

 1879年(明治12年)に発行された「横須賀港一覧絵図」から。
 2階建ての建物が、藤倉の場所です。
 この当時は、大きな家だったのかもしれません。きっとお金持ちなんです。
 周囲の家は平屋で、家というよりも小屋のような簡素な建物です。かなりの違いがります。
 突堤が築かれていますが、海岸線は砂浜だったようです。

写真撮影:----年--月--日

藤倉

京急汐入駅下車 徒歩数分
地図
藤倉
藤倉

 1882年(明治15年)に発行された「横須賀一覧図」から。
 この地図は細かいところまで、しっかり書き込まれています。
 3年後には藤倉が建っています!!立派な門になっていて、上部に街灯が設置されています。しかも、レンガの柵が造られています。
 海岸線は直線になったので、1879年(明治12年)〜1882年(明治15年)の間に護岸工事が行われたようです。
 藤倉の左側、縦に長く伸びた海のようなものが見えますが、これは草地か畑地のようです。ここも柵で囲まれています。
 柵の外側には多くの人が歩いていますが、柵の内側には誰もいないのも気になります。一般の人は入ってはいけない場所だったのでしょう。

写真撮影:----年--月--日

藤倉

京急汐入駅下車 徒歩数分
地図
藤倉
藤倉

 1885年(明治18年)に発行された「横須賀明細一覧図」から。
 さらに3年の時が経過すると、藤倉が巨大化します。何棟もの建物ができあがっています。
 さらに謎は深まるばかり・・・
 相変わらず敷地内には人がいない。
 絵図から確認すると、この建物は木造とレンガ造りのようです。新しく建てたものは、レンガなのかもしれません。

写真撮影:----年--月--日

海兵団寄宿所

京急汐入駅下車 徒歩数分
地図
藤倉
藤倉

 1890年(明治23年)に発行された「横須賀明細一覧図」から。
 そして5年の時が経過すると・・・
 あっ、あれ?
 建物の配置は同じままで、名前が変わっています!
 「藤倉」から、「海兵団寄宿所」になっています!!
 こっ、これはどういうことでしょうか?
 しかも、柵が厳重になっています。周囲の建物もなくなっています。

写真撮影:----年--月--日

なくなってる・・・

京急汐入駅下車 徒歩数分
地図
藤倉
藤倉

 1893年(明治26年)に発行された「横須賀港一覧絵図」から。
 わっ、わー!!!
 海兵団寄宿所になっていたはずなのに、3年後にはなくなっているじゃないかー!!

写真撮影:----年--月--日

航空写真

京急汐入駅下車 徒歩数分
地図
藤倉
藤倉

 1966年の航空写真から。
 藤倉のあった場所は、現在のヴェルニー公園です。この写真の中心部分あたりにありました。
 ちょうどカフェレストラコルセールがある場所あたりになります。もうちょっとだけ海側かもしれないです。
 この当時は、「臨海公園」っていう名前でした。
 突堤みたいなのがいくつもあったんですね、まだ生まれる前のことだから知りませんでした。
三浦半島観光地図:横須賀市汐入町ヴェルニー公園

写真撮影:----年--月--日

航空写真

京急汐入駅下車 徒歩数分
地図
藤倉
藤倉

 現代の航空写真です。
 公園は整備され、2001年(平成13年)にヴェルニー公園と名前が変更されました。
 臨海公園からヴェルニー公園に変わり、以前とはまったく異なる公園に生まれ変わったと思っていたんですが、航空写真で確認するとあまり変わらないですね。
 本町山中有料道路ができています。

写真撮影:----年--月--日

藤倉

京急汐入駅下車 徒歩数分
地図
 1884年(明治17年)、横須賀鎮守府が設置されました。この当時、藤倉はまだ健在でした。
 1890年(明治23年)、「海兵団寄宿所」になっています。土地・建物は海軍に買収され利用されていたということになります。周辺一帯に柵がめぐされているので、一帯全体が軍の土地になったと考えて良いでしょう。
 1893年(明治26年)、建物は取り壊され、更地になっています。

 藤倉に関しては、「午後二時五分本村通御、観音崎天覧、同三時五十分拙宅御小休、同四時御出馬にて横須賀藤倉へ御一泊、翌十九日朝同所に於て、徳大寺宮内卿より金弐拾円、白羽一重一疋を奉戴す」とあります。
 これは1881年(明治14年)、明治天皇が横須賀への行幸の際の記録です。明治天皇はたびたび横須賀を訪れており、神奈川県には66回、横須賀へは16回も訪れています。
三浦半島観光地図:横須賀市本町・明治天皇行在所跡
三浦半島観光地図:横須賀市汐入町・御幸橋
 このことから、藤倉は旅館だったことがわかります。当主は藤倉五郎兵衛で、新しくできた旅館だそうです。

 さらに詳しく知るには、横須賀繁昌記を読み解く必要がありそうです。

藤倉五郎兵衛

京急汐入駅下車 徒歩数分
地図
 藤倉五郎兵衛なる人物がどのような人だったのか調べてみたら、横須賀出身ではありませんでした。東京の深川出身の人でした。これだけ大きな家に住んでいるから地元の名士だと思ったのですが、関係ありませんでした。仕事を求めて、東京から多くの人が横須賀に来ていたことが分かります。

 1879年(明治12年)5月1日、藤倉五郎兵衛が横浜〜横須賀間を、1日4回の汽船営業を開始しました。
 これは、横浜製鉄所のある横浜〜横須賀間を定期船で結んでいましたが、横須賀造船所の業務として行うのは難しくなってきたため、民営化されました。
 そこで、東京の藤倉五郎兵衛に横須賀造船所の第1号十馬力船・第4号十馬力船を貸与し、定期船を営業させました。
 この当時、横浜〜横須賀間の移動は、もっぱら船便が利用されていました。1889年(明治22年)に横須賀線が開通すると、移動手段は鉄道に移り変わります。それでも、経営者が変わりながらも昭和初年まで行われていました。

 かなりの資産家だったようです。
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