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桜田門


桜田門

JR東京駅下車 徒歩5分
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桜田門
桜田門

 遠くから見ても立派ですね、桜田門です。桜田濠と凱旋濠の間にあります。正確には「外桜田門」と言いますが、一般的には「桜田門」です。なお「内桜田門」は、外桜田門よりも内側にあり「桔梗門」のことを指します。
三浦半島観光地図:東京都千代田区千代田・桔梗門
 私が撮影した写真では、桜田濠と、桜田門の城門施設のひとつであると渡櫓門が写っています。桜田門は高麗門と渡櫓門の2つで、ひとつの城門として機能していますが、高麗門の写真は撮影できませんでした。
 外側に高麗門という小さな門があり、内側の渡櫓門という大きな門を造り二重構造になっています。中間には桝形と呼ばれる四角形の広場があります。桜田門の枡形は、江戸城ではもっとも広く造られています。この広場は、門から打って出る兵の待機場所でもあり、敵に攻められた時にはここに敵兵を引き入れ周囲から弓や鉄砲などで攻撃して一網打尽にします。
 江戸城の城門は、枡形門が標準的な門構えになっています。

写真撮影:2008年04月06日

桜田門

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桜田門
桜田門

 良くみると、屋根にはちゃんと鯱(しゃちほこ)が乗っていますね。残念ながら金の鯱ではありません。青銅製か瓦製か、どっちかなのかなー。普通は瓦製ですが、写真で見るとちょっと青色っぽいんですよねー。
 鯱は想像上の海水魚で、シャチではありません。頭は虎に似ていて、波を起こし雨を降らせると言われています。寺院に設置される鴟尾(しび)と同様に、火災を防ぐためのまじないのようなものです。
 室町時代末期ごろから、城郭の棟飾りとして設置されるようになりました。
 当初は小田原街道の始点として、小田原口と呼ばれていました。
 1636年(寛永13年)、これまでの柵戸仕立の門を、現在のような桝形門に改築しました。この近辺はサクラが大変美しかったことから、桜田門と呼ぶようになりました。
 1923年(大正12年)、関東大震災で一部が破損したため、鋼鉄土蔵造りに改修されました。

写真撮影:2008年04月06日

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桜田門
桜田門

 どうせ他の門と同じように通ることはできないんだろうなーって思ってたんですが、桜田門は自由に通ることができるみたいです。桜田門を通ってしまうと、目的地とはまったく別の場所に行ってしまうし、時間的な都合もあり、今回は通ることができませんでした。
 安政7年(1860年)、門の近くで水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が彦根藩の行列を襲撃する大老・井伊直弼の暗殺事件が起こりました。あまりにも有名な桜田門外の変です。実際に襲撃された場所は、現在の桜田門交差点あたりです。
 桜田門外の変は3月3日、現在の暦では3月24日になり、季節外れの大雪が降っていました。護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側に有利な状況でした。江戸幕府が開かれてから、江戸市中で大名駕籠を襲撃するなと発想そのものがなく、衝撃的な事件となりました。
 井伊邸は現在の憲政記念館の建っている辺りにあり、桜田門から西側に約500mの場所にありました。事変後、護衛の者たちへの処分があり、軽症者には切腹が命じられ、無傷の者には斬首の上、家名断絶となる厳しい処分が下されました。
 襲撃側は多くが自刃するか、捕縛され斬首されましたが、増子金八と海後磋磯之介は潜伏して明治時代まで生き延びました。
 桜田門外の変後、日本国内でも血なまぐさい暗殺の時代が長く続きます。

写真撮影:2008年04月06日

桜田門

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桜田門
桜田門

 デジカメの望遠レンズを使って桜田門を撮影。少し桜田門に近づいた感じがしますが、撮影している場所は同じ場所だったりします。もっとズームで拡大できるんですが、これ以上ズームで寄っても桜田門の一部分しか写真に撮れなくなっちゃうので、3倍ズームくらいで。
 桜田門の正面には、豊後杵築藩松平家屋敷がありました。現在では、警視庁の庁舎が建っています。国道1号を挟んで、法務省の赤レンガ棟が建っています。

写真撮影:2008年04月06日
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