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楠正成像


楠正成像

JR東京駅下車 徒歩15分
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楠正成像
楠正成像

 威風堂々とした楠正成に、躍動感のある馬がとても立派なブロンズ像です。皇居外苑の中でも、ひときわ目立つ存在です。ついつい御濠や門など、江戸城の遺構に目が行ってしまいますが、楠正成のブロンズ像も一見の価値あります。なぜか「楠木正成」じゃなくて、「楠正成」となっているんですよ、なんか違和感がありますよね。しかも皇居に楠木正成像が存在することそのものに、違和感を感じたりもします。
 愛媛県の別子銅山を開いた住友財閥(住友友忠)が開山200年の記念として企画し、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に作成を依頼し、宮内庁へ献納されました。もちろん銅像には別子銅山から採掘された銅が鋳造されています。当時の技術の粋を集めて作成され、1900年(明治33年)7月に献納されました。残念ながら住友友忠は銅像の完成を見ることなく若くして亡くなりましたが、住友吉左衛門が遺志を継いで完成させます。
 本体の高さは4m、台座を加えると約8mにもなります。台座は花崗岩で作られています。本体の重さは、約6.7tあります。
 楠正成は高村光雲、馬は後藤貞行の作で、鋳造は岡崎雪聲が行いました。
 楠木正成が活躍していた時代、戦国時代や幕末に比べるとあまり人気がないためか、知らない人が多いと思うので長くなりますが解説をしておきます。後醍醐天皇・足利尊氏・新田義貞などの人物が活躍した時代です。簡単に人物像を説明すると後醍醐天皇は権力欲がつい良く活動的な異色の天皇、足利尊氏は時代を見通す感性に優れた御家人、新田義貞は純情素朴でメンツにこだわる御家人、楠木正成は商業活動に長け既成概念にとらわれない出自不明の土豪です。
 鎌倉幕府の北条得宗専制政治に対する反感が募り、鎌倉幕府の根底が揺らぎだした頃でした。後醍醐天皇は倒幕の計画を進めましたが、正中元年(1324年)に計画が漏れて失敗。側近の日野資朝は佐渡に流されました。正中の変と呼ばれています。
 倒幕の意思を持つ後醍醐天皇は、元弘元年(1331年)に京都御所を出て奈良の笠置山で挙兵します。しかし幕府軍に捕まり、隠岐に配流されてしまいます。当時の隠岐は日本海の荒波に隔てられた配流の地で、小野篁(おののたかむら)や承久の乱の後鳥羽上皇も配流されています。後鳥羽上皇は22年間を隠岐で過ごし亡くなりましたが、後醍醐天皇は1年後には島を脱出し、伯耆の豪族・名和長年(なわながとし)の支援を得て再び挙兵します。
 河内の悪党・楠木正成、天皇の皇子・護良親王らも集結し倒幕の動きが加速しました。
三浦半島観光地図:鎌倉市二階堂・護良親王の墓

写真撮影:2008年04月06日

楠正成像

JR東京駅下車 徒歩15分
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楠正成像
楠正成像

 外国人観光客が多いからでしょう。英語でも書いてありますね、「Statue of Kusunoki Masashige」って。でもさ、英語で書いてあっても、外国人には楠正成が誰なのかわからないから、あんまり意味がないような気がする・・・
 鎌倉幕府は御家人・足利尊氏に援軍を求めますが、幕府の命に背き朝廷側に味方することを決意し、逆に六波羅探題をせめ落とします。時を同じくして御家人・新田義貞も反幕府勢力として旗揚げしました。足利氏・新田氏も源氏の血を引く名門で、北条得宗家の独裁体制に不満を持っていました。
 各地で起きた倒幕の動きは、足利尊氏が京都を奪回し、新田義貞は鎌倉を攻め滅ぼし執権・北条高時を自害に追い込みます。こうして1333年(元弘3年)、鎌倉幕府は滅亡しました。
三浦半島観光地図:鎌倉市小町・北条高時腹切りやぐら
 後醍醐天皇の建武の新政が成立した背景には、悪党と海賊の存在がありました。鎌倉時代末期、貨幣経済が進み御家人の土地は分割相続され所領が細分化され経済的に困窮していました。旧来の土地を媒介とした主従関係が崩壊寸前になっていました。特に流通の盛んな機内では、荘園領主に対抗して年貢の納入を拒否する新興武士団が登場、そんな悪党の一人が楠木正成です。
 悪党を上手く利用した後醍醐天皇ですが、政治は時代の流れを無視した平安時代の治世に戻そうとするものでした。公家を優遇し、武士に報いることが少なく、武士の不満は募っていきました。
 武士たちの不満をすくい上げる形で力を蓄えていたのが、足利尊氏です。各地で起こっていた北条の残党の反乱を鎮めつつ勢力を固めて、北条高時の子・時行(ときゆき)が鎌倉を占領した中先代の乱(1335年)の討伐で、みずから幕府を開くことを画策します。征夷大将軍の冠位を求めますが後醍醐天皇が拒否し、新田義貞に足利尊氏討伐の命を下します。
 一時は劣性だった足利尊氏も、持明院統(じみょういんとう)から光明天皇を擁立して官軍となり、形勢逆転。建武3年・延元元年(1336年)に国の施政方針である建武式目十七条を制定し、建武の新政はわずか2年で崩壊しました。後醍醐天皇は比叡山から吉野に逃れ、吉野の南朝、京都の北朝の2つの朝廷が並立し、その後も56年間に及ぶ南北朝の動乱の時代が始まります。
 楠木正成は1336年、摂津の湊川で敗死しました。正成の子・正行(まさつら)も奮戦しましたが1348年、河内四条畷で戦死。名門の出身でもない土豪の楠木正成一族は南朝の天皇家に忠誠をつくし、その戦いぶりは既成概念にとらわれないゲリラ的な戦いをするなどして活躍したため、楠木正成の銅像を皇居に設置することになったのではないでしょうか。

写真撮影:2008年04月06日

楠正成像

JR東京駅下車 徒歩15分
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楠正成像
楠正成像

 同じ日本語なのに、難しいね・・・
 高村光雲は1852年(嘉永5年)〜1934年(昭和9年)、仏師であり、彫刻家でもあります。江戸下谷(現在の台東区)の町人・兼吉の子として生まれます。1863年(文久3年)から仏師・高村東雲の元に徒弟となり、高村東雲の姉エツの養子となり高村姓となります。
 明治維新以後の廃仏毀釈の影響で仏師としての仕事はなくなり、輸出用の象牙彫刻が流行したために木彫も衰え、ほとんど仕事がなく苦しい生活を送っていました。しかし木彫にこだわり、積極的に西洋美術を学び、衰退していた木彫に写実主義を取り入れました。こうして江戸時代までの木彫技術の伝統を近代に繋げる重要な役割を果たしました。
 代表作は東京国立博物館が所蔵する『老猿』、宮内庁が所蔵する『山霊訶護』、上野恩賜公園の『西郷隆盛像』、そして皇居前広場の『楠正成像』です。
 後藤貞行は1850年(嘉永2年)〜1903年(明治36年)、彫刻家です。紀州藩士の次男として箱根で生まれ、駿河国で育ちます。変わった経歴の持ち主で、和歌山で文武を学び、幕府の騎兵所、東京で兵馬術、フランス人デシャルムから西洋画、石版画・写真術、高村光雲から木彫を学びます。陸軍戸山学校の図画掛になったり、軍馬局、東京美術学校に勤めたりもしています。
 代表作は皇居前広場の楠正成像の馬、上野恩賜公園の西郷隆盛像の犬です。馬の彫刻家として有名な人です。
 岡崎雪聲は1854年(嘉永7年)〜1921年(大正10年)、鋳造師、彫金家です。京都府京都市伏見区の釜師、岡崎貞甫の子として生まれます。釜師としての技術を習得後、上京して鋳工を学びます。彫金家の鈴木長吉の門人となり、「芸術作品」としての鋳金を学びます。
 彫金技術もさることながら、鋳造技術が高く評価され数多くの彫刻家の作品の鋳造に関わっています。上野恩賜公園の西郷隆盛像、渡辺長男の日本橋欄干彫刻、軍神広瀬中佐像、竹内久一の日蓮上人立像など。楠正成像の制作では巨大な像を鋳造する技術を習得するため単身自費で渡米し、日本初の分解鋳造法による鋳造を行いました。

写真撮影:2008年04月06日

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