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 桔梗門・内桜田門

桔梗門・内桜田門 JR東京駅下車 徒歩5分
 地図
桔梗門・内桜田門
桔梗門・内桜田門
 桔梗濠の向こう側に見える立派な門、桔梗門っていいます。別名を、内桜田門とも呼ばれています。
 太田道灌時代、泊船亭はこの辺りだったと言われ、大手門に当たります。太田道灌の家紋である桔梗紋が屋根瓦に残されていたため、「桔梗門」と呼ばれるようになりました。現在でも門の鬼瓦には桔梗紋があります。また、船で各大名がここから帰郷したので「帰郷」が「桔梗」に転訛したとする説などがあります。
 高麗門と、入って右側の渡櫓門からなる枡形形式の門です。やはり関東大震災で被災しましたが、その後、復元されました。
 桔梗門の周辺と、桔梗濠の石垣の造りが違うのがわかると思います。石垣の積み方が異なっているためです。通常の場所は六角形の石を使った亀甲積みです。江戸城では、門周辺や角にあたる部分は、美観の関係から算木詰みで石垣の積み方が異なります。石垣が御影石でできています。
 桔梗門へと繋がる道は、桔梗門橋、または内桜田門橋と呼ばれています。内濠の桔梗濠と蛤濠の間に架かり、皇居外苑から皇居東御苑にある皇宮警察本部前に通じる土橋です。1614年(慶長19年)に造られた橋です。
三浦半島観光地図:東京都千代田区千代田・桔梗濠
写真撮影:2008年04月06日

桔梗門・内桜田門と巽櫓 JR東京駅下車 徒歩5分
 地図
桔梗門・内桜田門と巽櫓
桔梗門・内桜田門と巽櫓
 関東大震災で被災する前、明治時代に撮影された桔梗門と、巽櫓です。
 現在の桔梗門も巽櫓も、関東大震災によって被災したため復元したものなんですが。明治時代に撮影された写真と、まったくと言っていいほど同じように復元されていますねー。驚くほどの正確さで、復元がなされているように見えます。
 当時の資料や技術で、よくここまで正確に復元することが可能だったなーと感心します。
 江戸時代には、桔梗門の奥にある蛤濠が二の丸北側の天神濠まで繋がっていました。江戸城の防衛が考慮され三の丸は濠に囲まれ、橋を渡って門の出入りが行われていました。明治時代以降、要塞としての機能が必要なくなり、大正時代に蛤濠は一部を残して埋め立てられ、現在の姿になりました。
三浦半島観光地図:東京都千代田区千代田・巽櫓
写真撮影:----年--月--日

桔梗門・内桜田門 JR東京駅下車 徒歩5分
 地図
桔梗門・内桜田門
桔梗門・内桜田門
 かなり色褪せた標柱。風雨にさらされ、紫外線を浴び、色が褪せてしまったようです。警察官の監視の目があるため、落書きなどはありません。ペイントスプレー缶で、落書きされることが多いんだよね。落書きを落とすのにも税金が使われるし、実は意外と費用がかかるので、本来必要ないことに税金が使われるので、落書きは非常に迷惑ですね・・・
 宮内庁的には、「内桜田門」なのでしょうか?地図で確認すると、桔梗門と書かれている場合が多いのですが。宮内庁的には内桜田門で、国土地理院的には桔梗門なのでしょうか?
 単に「桜田門」と言えば、「外桜田門」のことを指します。「桜田門外の変」が起きたのも、外桜田門です。
 普段は通ることができません。皇居見学の際には、桔梗門前が集合場所で桔梗門が入り口になっています。通常では宮内庁の関係者や皇宮警察本部の関係者が利用しています。
 三の丸に入るための南門です。幕府の要職者が利用し、門外には下馬札が立っており、ここで馬から下りなくてはいけません。大門六門のひとつとして厳重に警備されていました。
写真撮影:2008年04月06日
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