江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』によれば「佐原十郎義連墓は観音堂の側にあり、五輪塔なり。高さ七尺、左右に五輪塔六基相並ぶ。とあります。」
佐原義連の五輪塔の周辺には、たくさんの小さな五輪塔や宝篋印塔があります。完全な形として残されている物はほとんどなく、上の方の一部だけが残されている物がほとんどのようです。
享和年間(1801年〜1803年)に三浦志摩守らによって修築された瓦土塀ですが、痛みが激しく昭和59年に現在の塀に建て替えられました。
佐原義連の子、佐原家連は肥前守に任ぜられており、京都にある泉湧寺(せんにゅうじ)の俊?(しゅんじゅう)を三浦館に招き梵寺を供養しています。その梵寺とは、満願寺のことです。
三浦半島の歴史:人物事典・三浦志摩守
|