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満願寺


満願寺

バス停岩戸下車 徒歩7分
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満願寺
満願寺

 臨済宗満昌寺末寺、岩戸山満願寺。本尊は釈迦阿弥陀仏です。開山は大達明岩正因、開基は佐原十郎義連って書いてありました。
 佐原十郎義盛の発願によって建てられた、臨済宗のお寺で、かつでは七堂伽藍の整った大きなお寺でした。現在、境内に残されている大石が当時の建物の基礎石だったそうです。
 昭和63年、境内を発掘した際、瓦溜り2ヶ所、墓1基、13世紀〜14世紀の土器(かわらけ)・釘などが発見されました。創建当初、ここは沿岸地域で、寺域は今より数倍あったことが判明しています。
 本堂、庫裏は火災によって焼失し、戦後に建てなおされたものです。
三浦半島の歴史:人物事典・佐原義連

写真撮影:----年--月--日

佐原義連の墓

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佐原義連の墓
佐原義連の墓

 佐原十郎義連の墓と伝えられている五輪塔です。福島県熱塩加納村満願寺にも佐原義連の五輪塔が残されています。
 凝灰岩でできた高さ174cmの五輪塔です。水輪、火輪はもともとのもので、空輪、風輪、火輪はのちに補ったものです。鎌倉時代の五輪塔様式の特徴を良くあらわしている事などから、横須賀市の指定史跡になっています。
 佐原義連は「さはらぎれん」ではなく、「さわらよしつら」と読みます。三浦義明の末子で、この地に住み佐原姓を名乗っていました。生没年に関しては、はっきりとはわかっていません。
 寿永2年(1183年)2月、源義経に従って一の谷の合戦に参戦し、鵯越(ひよどりごえ)の難所を先駆けして勝利を導いた武将として『平家物語』に登場しています。文治5年(1189年)奥州遠征に従い、建久3年(1192年)源頼朝上洛に従い左衛門尉に任ぜられました。法号は「満願寺殿」です。
三浦半島の歴史:人物事典・三浦義明

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佐原義連廟所

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佐原義連廟所
佐原義連廟所

 江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』によれば「佐原十郎義連墓は観音堂の側にあり、五輪塔なり。高さ七尺、左右に五輪塔六基相並ぶ。とあります。」
 佐原義連の五輪塔の周辺には、たくさんの小さな五輪塔や宝篋印塔があります。完全な形として残されている物はほとんどなく、上の方の一部だけが残されている物がほとんどのようです。
 享和年間(1801年〜1803年)に三浦志摩守らによって修築された瓦土塀ですが、痛みが激しく昭和59年に現在の塀に建て替えられました。
 佐原義連の子、佐原家連は肥前守に任ぜられており、京都にある泉湧寺(せんにゅうじ)の俊?(しゅんじゅう)を三浦館に招き梵寺を供養しています。その梵寺とは、満願寺のことです。
三浦半島の歴史:人物事典・三浦志摩守

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三浦三つ引両

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佐原義連の墓
三浦三つ引両

 さすがは三浦一族ゆかりのお寺です。「三浦三つ引両」とか、「丸に三つ引両」といいます。通常の家紋は白黒ですが、本来は黄色・紫色・紅色の3色で構成されています。
 それというのも、三浦氏の幕は、黄紫紅(きむらご)の3色に染め分けられたもので、三浦の「三」の文字を表現したものと言われています。それがのちに「三つ引両」の家紋に転じたとされています。
 三浦氏の嫡流は「宝治合戦」で滅亡しましたが、一族は各地に分散しています。三つ引両の家紋を見付けたら、三浦氏にゆかりのある人物だと考えて良いでしょう。
 信長の野望にも登場する会津の葦名氏、越後の三浦和田氏一族、越後・周防の平子氏、織田信長に仕えた佐久間一族も、美作の三浦氏、肥前の深堀氏など。なんか、うちも三浦氏らしいです。

写真撮影:----年--月--日

観音堂

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観音堂
観音堂

 本堂右手の収蔵庫には、観音菩薩、地蔵菩薩、毘沙門天、不動明王の4像が奉られていて、4体とも鎌倉時代の重要な文化財です。観音菩薩、地蔵菩薩は国の重要文化財に指定されています。
 かつてはここの、本堂裏手の観音堂にありました。
 三浦古蹟集によると「何レモ六尺余ノ立像也、佐原十郎ヲ観音ニ祭リ、巴御前ヲ地蔵ニ祭リ、和田義盛ヲ毘沙門ニ祭リ、朝比奈三郎ヲ不動ニ祭ルト云、運慶ノ作也」と記されています。
 観音菩薩、地蔵菩薩は運慶様式の作品といわれ、浄楽寺の阿弥陀三尊の影響を受け、佐原義連が作らせたと考えられています。運慶の作品を反映させた貴重なものとして、国の重要文化財に指定されています。
 特に観音菩薩は寿永3年(1184年)、19歳の佐原義連が平家追討のため西国におもむくさいに、自分の姿を彫刻させ、戦勝を祈願したものと伝えられています。
 地蔵菩薩もほぼ同時期に作られたものと推測されています。
 不動明王と毘沙門天は、やや時代が下がり鎌倉時代中頃と考えられています。どちらも横須賀市の重要文化財に指定されています。
三浦半島の歴史:人物事典・運慶

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松尾芭蕉の句碑

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松尾芭蕉の句碑
松尾芭蕉の句碑

 慶応2年(1866年)に建立されました。
 江戸幕府末期の幕末時に、浦賀奉行所与力で俳人でもあった中島三郎助の筆による、松尾芭蕉の句碑です。
人物事典:中島三郎助
 中島三郎助は、黒船来航時には与力として活躍し、その後、榎本武揚らと行動をともにし、函館の五稜郭で討ち死にしました。
 達筆すぎて何て書いてあるのか読めませんが、
 ・・・『まつたのむ、椎の木もあり、夏木立』
 と刻まれています。
三浦半島の歴史:人物事典・松尾芭蕉

写真撮影:----年--月--日

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瓦

 横須賀市自然人文博物館にある、満願寺の瓦です。かなり修復のあとが見えるので、創建当時の瓦なのだと思います。
 中世の武士団にとっては、先祖以来の土地とお墓のある場所は、命の次に大切なものでした。
 彼らはその土地に氏寺や、氏神を建てて先祖の供養を行いました。そしてまた、一族の結び付きも深めました。
三浦半島観光地図:横須賀市深田台・横須賀市自然人文博物館

写真撮影:----年--月--日
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