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鎌倉市小町史跡巡り・観光名所案内


鎌倉市小町の歴史

小町の歴史

   夷堂川と呼ばれる滑川中流域の沖積地に位置します。西側は平坦で、東側は屏風山を中心とした谷あい地です。
 鎌倉時代の中心地で、幕府跡、有力御家人の邸跡などがあり、北条高時一門が自刃して果てた東勝寺跡と、腹切りやぐらと呼ばれる墳墓が葛西ヶ谷にあります。

 鎌倉時代、相模国鎌倉郡にありました。
 『吾妻鑑』の建久2年3月4日条に「丑剋小町大路辺失火、江間殿・相模守・村上判官代・比企右衛門尉・同藤内・佐々木三郎・昌實法橋・新田四郎・工藤小次郎・佐貫四郎巳下屋敷数十宇焼亡」とあり、余炎は鶴岡八幡宮・幕府にまで及びました。
 『吾妻鑑』の承元4年11月20日条に「戌刻焼亡、北風甚利、相模太郎殿小町御亭并近隣御家人宅等炎」とあり、北条義時・泰時亭や御家人宅が密集した地域だったことがわかります。
 和田義盛の乱では、建保元年5月2日、和田義盛は最初に「幕府南門并相州御第<小町上>西北両門」とあり、小町の北条義時亭を囲んでいます。

 和田義盛の乱のあと、代々北条氏一門の居住地となり、宝治元年7月17日、京都から北条重時が鎌倉に到着し、「故入道武州経時小町上旧宅」に入っています。この旧宅は「御所北、面若宮大路」とあり、御所の北側にあり、若宮大路に面して建てられていました。
 小町大路を挟んで東西に北条氏嫡流の亭、宇津宮辻子幕府などがあり、鎌倉の政治的中心地にあたる地域です。
 北条氏の家臣で、のちに御内人と呼ばれる人々も居住していました。

 『吾妻鑑』の元仁元年6月27日条に「武州(北条泰時)被移鎌倉亭<小町西北>、日者所被加修理也、関左近大夫将監実忠、尾藤左近将監景綱両人宅在此郭内也」とあり、嘉禎2年12月23日条には「平左衛門尉小町宅」とあります。建長3年10月8日、北条頼時は「新造御第<小町>」に移っており、北条政村の亭もこの地にありました。
 建長3年12月3日、幕府は以前から「鎌倉中在々所々、小町屋及買売設之事可加制禁之由」を出していましたが、この日特定の場所「大町、小町、米町、亀谷辻、和賀江、大倉辻、乗和飛坂山上」に限る旨の触れを出しています。文永2年3月5日、「散在町屋等」を整理し、「一所大町、一所小町、一所魚町、一所穀町、一所武蔵大路下、一所須地賀江橋、一所大倉辻」に限っています。幕府の中心地帯でもあり、商業地域としても賑わっていたことがわかります。
 弘長3年4月16日条には、「東御方(将軍宗尊親王の室)小町亭」の仮棟の儀が行われ、6月2日上棟、6月29日門の上棟が行われ、7月13日に移徙しています。

 弘長3年11月22日、「未剋、小町焼亡、南風頻吹、其烟掩御所・・・至前武州亭前火止」とあり、火事がありました。永仁4年12月11日にも大火に見舞われ、「鎌倉大セウマウ、大しやうくんタウのハシノモトヨリイテキテ、コマチ・ヲウマチ・ナコエノ入、ミナヤケテ、人四百人ハカリヤケシニケリ」とあります。
 応永24年8月の日英末寺等支配注文には、「鎌倉小町妙隆寺」が再興されています。

 江戸時代は鎌倉郡に属する小町村です。
 寛永10年・元禄10年・幕末ともに幕府領と寺領です。寺領は宝戒寺領・大巧寺領・本覚寺領・建長寺領からなります。
 村高は『元禄郷帳』では28石余と永78貫余、『天保郷帳』では29石余と永89貫余、『旧高旧領』では29石余と永92貫余となっています。
 宝戒寺は天台宗寛永寺末、天正19年の徳川家康寄進状写によれば永9貫600文、その寺地は北条高時の亭跡で、高時以下の亡魂得脱のため足利尊氏が後醍醐天皇へ奏聞して建立しました。
 日蓮宗大巧寺は、はじめ真言宗で大行寺と称しており、開山は日澄、大町村妙本寺の院家、天正19年の徳川家康寄進状写によれば永7貫200文。日棟は産女の霊魂を鎮め、産女宝塔を造立し、これにちなんで安産のお札を出し、近隣に安産祈願の寺として知られています。
 建長寺領は天正19年の徳川家康寄進状写で95貫余、そのうち小町村では63貫600文です。
 日蓮宗本覚寺では、『鎌倉志』に「身延山の末寺なり。開山日出上人。永享年中に草創すと云云。此寺は東国法華宗の小本寺也」とあり、天正19年に寺領12貫200文を寄進されました。

 『新編相模』によれば、江戸から13里許、「村内の通行農商雑処し、比屋稠密にして一聚落を成せり」とあります。
 安政2年の朱印寺社高反別・除地寺院書上では、文化5年写として家数19軒。

 明治元年、神奈川府を経て、神奈川県に所属しました。
 『皇国地誌』では、幅員は東西535間・南北219間、税地は38町7反余うち田4町8反余・畑16町7反余・宅地4町余、雪ノ下村・浄明寺村・大町村・乱橋材木座村・扇ガ谷村に飛地があり、明治9年に戸数63・人口271、地味は中の上で稲・麦・木綿・蔬菜などに適すとあります。
 明治8年、雪ノ下学校を宝戒寺内に開設しました。
 明治22年、東鎌倉村の大字となり、小町になりました。
 明治24年、戸数66、男157人・女393人。
 明治27年、鎌倉町の大字となりました。
 明治29年、妙勝寺が福島県双葉郡に移転しました。
 明治44年、宝戒寺境内に明治幼稚園が開園しました。
 明治45年、戸数125・人口1205。
 大正12年、関東大震災の被害は、戸数435のうち全焼158・全壊123・半壊109、死者43。
 大正14年、世帯数418、人口2008。

 昭和14年、鎌倉市の大字となりました。
 昭和18年、各所にあった飛地を整理し、極楽寺飛地の一部を編入しました。一部は昭和40年に御成町、昭和41年に小町となり、残余は昭和43年に扇ガ谷になりました。
 昭和25年、世帯数930、人口3890。
 昭和35年、世帯数903、人口3602。
 昭和41年、1丁目の世帯数188、人口600。2丁目の世帯数524、人口1640。3丁目の世帯数261、人口745。

 鎌倉市内。JR横須賀駅の東側エリアが、小町になります。鎌倉観光の起点になる場所ですで、土産物店やオシャレな店が並ぶ小町通も小町になります。

地名の由来

   鎌倉時代の町の中心で、町屋が多かったことから。商いの大小をもって、大町・小町となりました。
 『鎌倉志』によれば、「若宮小路ノ東ヨリ南ヘ折て行、夷堂橋までの間を云」とあり、現在の雪ノ下の南から本覚寺夷堂橋付近までの地域でした。
 
扇ガ谷 雪ノ下  
  小町  
御成町   大町

JR鎌倉駅


JR鎌倉駅 JR横須賀線の鎌倉駅です。
 JR鎌倉駅は小町1丁目ですが、江ノ電鎌倉駅は正確には御成町1番地だったりします。紛らわしい・・・

東勝寺橋


東勝寺橋 滑川に架かるアーチ状のコンクリート製の橋です。
 青砥藤綱にまつわる伝説が残っているのも、このあたりになります。

東勝寺跡


東勝寺跡 鎌倉幕府終焉の地、東勝寺跡です。
 この地で、執権北条高時他、一族郎党が自害しました。

北条高時腹切りやぐら


北条高時腹切りやぐら 北条高時の墓所と伝えられているやぐらです。
 ここから、祇園山ハイキングコースへと行くことができ、大町の八雲神社に通じています。

滑川


滑川の風景 小町近辺の滑川の写真です。
 東勝寺橋や、宝戒寺橋から撮影しました。

宝戒寺橋


高戒寺橋 滑川に架かる橋のひとつ、宝戒寺橋です。
 滑川のこと、せせらぎ滑川っていうの?滑川再生事業に関する説明版があります。

紅葉山やぐら


紅葉山やぐら 昭和になってから発見された、北条執権家にゆかりのあると考えられているやぐらです。
 キケンなので中に入ることはできません。

宝戒寺


宝戒寺 天台宗のお寺で、山号は金竜山です。
 北条執権邸の跡地に建ち、北条高時の霊をなぐさめるため、後醍醐天皇の命令により足利尊氏が立てたお寺です。

小町通り


小町通り 若宮大路に平行して走る商店街通り。
 たくさんのお店があり、見て回るだけでも楽しいお店ばかりです。

 
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