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光照寺


光照寺

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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光照寺
光照寺

 三戸浜海岸の近くに建つお寺。三戸では、すべての神社・仏閣が、海岸沿いに造られています。かつては、漁業が盛んだった街だということがわかります。現在でも、住宅は海岸沿いに集中しています。
三浦半島観光地図:三浦市初声町三戸・三戸浜海岸
 浄土宗のお寺で、鎌倉の光明寺の末寺です。龍徳山庄司院と言います。開山は、1430年(永享2年)、空念和尚による建立です。
 空念和尚が修行中、三崎を訪ねた際、村人が毒蛇のために苦しんでいるのを見かけました。空念は、村人と共に庵を結び、念仏を唱え、厄を払ったと伝えられています。これが光照寺の前身となり、現在の庄司道あたりになります。
 鎌倉光明寺の三哲和尚が行脚中、この庵で一夜を過ごしました。その時の夢に龍が現れ、「わがしるす爪の跡に、この庵を移し、一寺を建立すべし。さすれば湧水に恵まれるであろう」とお告げを受けたので、庵を現在をこの地に移し、光照寺を建立しました。

写真撮影:2008年10月04日

光照寺

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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光照寺
光照寺

 庭は綺麗に管理されていて、静かな落ち着いたたたずまいのお寺です。なかなか、綺麗なお寺だと思います。
 光照寺には、「かめくり観音」と呼ばれる、高さ約56cmの観音菩薩像が安置されています。
 観音像は一木造りで、彫眼で、肉身のみが漆箔、その他は彩色が施されていますが、下半身の彩色は剥落し、素地を見せています。像容は全体的に太く、肩幅が広くふくよかです。右手はひじを曲げて胸前に挙げ、左手には末敷蓮華を持ち、女性的な雰囲気を持ちます。面相も丸くふくよかで、二重顎、細い半月型の眉、切れ長の眼は細く開いています。

写真撮影:2008年10月04日

光照寺

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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光照寺
光照寺

 本堂に掲げられた扁額を見てみると、龍徳山という山号が書かれてありました。三戸には山がないのに、なんで龍徳山っていうんだと言われてしまいそうですが。お寺の名前とは別に、山号というのが必ずあり、○○山っていう名前が付けられています。
 かめくり観音には、さまざまな伝説が伝えられています。
 村人が田を耕している時、可愛らしい手が出ていることに気付き、掘ってみたところ出てきたのが、観音像でした。これを稲田観音と呼び祀っていましたが、土地の漁師は出世魚のイナダの名に変えて、いなだ観音と呼び、大漁の祈願をしました。
身近な魚類図鑑:ブリ
 元々は瓶庫裏観音堂と呼ばれる場所の本尊でした。1923年(大正12年)の関東大震災の時、屋根の上の宝珠が落ち、応急に水瓶を逆さまに乗せていたことから、瓶庫裏観音と呼ばれるようになりました。お堂がなくなり、仏像だけが光照寺に移されました。土の中から掘り出されたとも、伝えられている観音像です。
三浦半島観光地図:1923年・関東大震災
 かめくり観音は、「手引観音」とも呼ばれています。

写真撮影:2008年10月04日

鬼瓦

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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鬼瓦
鬼瓦

 屋根のてっぺんに置かれる瓦です。
 一般的に鬼瓦って呼ばれていますが、この瓦の正式名称は「獅子口」って言います。鬼瓦は、鬼が描かれているので、鬼瓦って言います。
 屋根の一番上の鬼瓦が置かれる場所に、駒形箱型の瓦が置かれます。上部には経の巻(きょうのまき)って呼ばれる3個〜5個の巴瓦(ともえがわら)を乗せています。獣面などはありません。
 本堂の屋根の上に乗せられている物と同じだと思ったのですが、本堂に置かれた獅子口と見比べてみると、少し違うみたいです。
 浄土宗のお寺なので、獅子口(ししぐち)の中央部分には、月影杏葉(つきかげぎょよう)の家紋があります。浄土宗の開祖である法然上人の、生家の漆間家の家紋です。
 徳川家の家紋、三つ葉葵もありますね。江戸幕府と関係があったお寺なんだと思います。

写真撮影:2008年10月04日

井戸

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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井戸
井戸

 古井戸が2つ、ありました。
 丸型の井戸は、使えなくなってしまったようです。水鉢が置かれていました。
 四角型の井戸には、手押し式のポンプと、電動ポンプが設置されていました。使いやすいように、蛇口も付けられています。現役で活躍しているみたいです。
 手押し式のポンプを動かせば、井戸水が出てくると思います。井戸を見付けた時、使った方がいいのか、使わない方がいいのか、いつも悩んでいます。使わないと、水が濁ってしまったり、水質が悪化してしまうので。でも、勝手に許可なくポンプを動かすのは、道徳的に良くないかなーと思うし。
 井戸は地域の共同作業で掘るので、ある程度の財力が必要になります。真水を得るというのは、昔はとても難しいことだったんですよ。場所によっては、いくら深く掘っても、水が出てこないこともあるし。そのため、数軒の家で共同で使用するのが一般的でした。
 この井戸が、三哲和尚の夢に現れた、龍の爪痕のあった場所になります。

写真撮影:2008年10月04日

スダジイ

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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スダジイ
スダジイ

 とても立派なスダジイの巨木。荒々しく、うねるように伸びています。
 長年の海風に耐えながら、台風などの強風にさらされながら、成長し続けてきたんだと思います。時には幹や枝が折れてしまい、それでもまた、新しい芽が生えてきて、さらに大きくなって。それを繰り返しているうちに、グルグルとうねるような幹に成長していったんだと思います。
 スダジイって、普通はこんな樹形にはならないんですよ。
ベランダ園芸:スダジイ・ツブラジイの育て方
 三浦市の保護樹木No.14に指定されている、光照寺のスダジイです。幹周は約5m、樹高は約8m、樹齢は500年以上になります。2001年(平成13年)3月16日、「三浦市保護樹木」に指定されました。
 説明の看板には、樹高8mとありましたが、実際にはもっと大きな樹木です。

写真撮影:2008年10月04日

スダジイ

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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スダジイ
スダジイ

 光照寺には、2本のスダジイの巨木が生えています。生えているんじゃなくて、植えられているのか。
 樹齢は数百年とかかもしれないです。海に近い場所で、こんなにも大きく成長するのは、珍しいと思います。海に近いと風が強いので、成長すると折れてしまったり、根元から倒れてしまうことが多いです。
 「かまくらと三浦半島の古木・名木50選」に指定されているスダジイです。公益財団法人かながわトラストみどり財団の三浦半島地区推進協議会によって、指定されました。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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庚申塔
庚申塔

 境内に建っている庚申塔です。石塔には何も書かれていませんが、下部に三猿が彫られているので、庚申塔でしょう。
 中央部分が完全に風化してしまい、平面になっています。凹凸がまったくないので、文字碑だったんだと思います。庚申供養塔とか、青面金剛とか、書かれていたんだと思います。
 三戸には石塔が多いのですが、風化してしまった石塔も多く見かけます。古い石塔と言うよりは、風化しやすい柔らかい石を使っていたんだと思います。
三浦半島観光地図:三浦市初声町三戸・庚申塔
 境内のスダジイの巨木の下に、たくさんの石仏が並んでいます。写真は撮ったんですが、うまく映ってなかった・・・
 聖観音菩薩、子育て観音、如意輪観音、阿弥陀如来などの石仏が、たくさん並んでいます。観音信仰が広く浸透していた地域のようです。

写真撮影:2008年10月04日

地蔵

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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地蔵
地蔵

 石仏の種類はたくさんありますが、この石仏は地蔵だと思います。地蔵の特徴を持っているので。
 光背が欠けちゃっていますね。風化して割れたんじゃなくて、石仏が倒れて欠けちゃったんだと思います。石仏って固定されているわけじゃなくて、ただ乗せられているだけなので。大きな地震がくると、倒れてしまうことがあります。
 台座には、名前が彫られていました。花が供えられていたので、確認できませんでした。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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庚申塔
庚申塔

 光照寺の、すぐ隣に建ち並ぶ、石仏群です。とてもたくさんの石仏が建っています。こんなにたくさん並んでいるのって、めずらしいです。
 光照寺側の石仏から、順番に写真を撮りました。
 この石仏には「南無阿弥陀仏」って彫られてありました。駒型の文字碑です。碑の上部に日月が描かれていたので、庚申塔だと判断しました。南無阿弥陀仏という念仏が彫られているので、浄土宗の光照寺に関連する石塔だとも考えられるのですが。庚申塔が並んでいる場所に建っているし、日月もあるしってコトで。
 1778年(安永7年)に建てられた庚申塔です。
 台座には、名前が彫られてありました。苗字はありませんでした。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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庚申塔
庚申塔

 これは庚申塔で、間違いないでしょう。
 青面金剛が彫られています。青面金剛は、邪気を踏み付けています。下の方に小さく、三猿が彫られてありました。じっくり見ないと、三猿には気が付かないと思います。笠付きの角柱型です。台座には名前が書いてありました。
 1860年(万延元年)に建てられた庚申塔です。
 青面金剛は、道祖神とともに、民間信仰で広く尊信されています。青面金剛神は、病魔や悪鬼を払う神で、道教と習合して、庚申信仰の本尊となりました。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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庚申塔
庚申塔

 こちらも、庚申塔で間違いないでしょう。
 主尊は、青面金剛です。でも、かなり変わったデザインの庚申塔です。青面金剛の下に三猿が彫られているのは、良くある庚申塔のデザインなのですが。三猿が、正面と左右に、1匹ずつ彫られてありました。こういったパターンの庚申塔は、めずらしいと思います。
 庚申塔を作成する、石工の流派とかがあるのかな?
 1719年(享保4年)に建てられた庚申塔です。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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庚申塔
庚申塔

 間違いなく、庚申塔です。だって、庚申供養塔って書いてあるもん。
 「庚申供養塔」と彫られた、庚申塔です。かなり風化が進んでいますね。文字も読み取りにくくなっています。台座には、名前が彫られてあります。
 1804年(文化元年)に、建てられた庚申塔のようです。
 人の体内にいる三尸(さんし)の虫が、60日ごとに巡ってくる庚申の夜、天に昇って人の罪過を天帝に告げ、寿命を縮めるとする、中国の道教の教えが元になっています。
 庚申の夜は眠らずに言行を慎み、健康長寿を祈願する信仰が行われるようになりました。
 道教の教えを元として、仏教的な信仰が加わり、室町時代になると庚申待ちをする庚申講が作られるようになりました。この頃から、月待ち講による供養塔造立にならって、庚申塔の造立が始まりました。
 庚申待ちの行事や、供養塔造立には、人の延命招福にあります。講中の村人たちが、徹夜で飲食を共にすることから、村人間での連帯にも繋がりました。徹夜で飲んで、食って、祭りや宴会のように騒いでいたんだろうなんて思いますが、実際には静かに行われていたみたいです。騒いだらいけないらしいです。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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庚申塔
庚申塔

 石塔の下部に三猿が彫られているので、庚申塔で間違いないでしょう。
 笠付きの角柱型です。三猿以外は、風化してしまって、確認できませんでした。笠は風化することなくちゃんと残っているのに、肝心の石塔の方が、風化してしまっています。傘に使う石材と、石塔に使う石材は、異なるみたいです。
 いつ建てられたのかも確認できず、台座下部の名前も確認できませんでした。江戸時代に建てられたということは、間違いないでしょう。
 庚申塔の造立は、江戸時代になると、造形的に多様な類型をとって、沖縄を除く日本各地で造立されるようになりました。道端の石仏の中では、もっとも多く存在します。室町時代後期の庚申塔には阿弥陀が彫られていましたが、江戸時代になると悪疫を調伏する青面金剛や、道案内にかかわる猿田彦神などが本尊になりました。
 三浦半島内でも、ごく一部の地域には、庚申講が残っているようです。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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庚申塔
庚申塔

 青面金剛が彫られているので、庚申塔でしょう。
 主尊は青面金剛なのですが、ちょっと違和感がありました。どうして違和感を覚えたのかなって思ったら、青面金剛の身体のバランスがおかしい!顔がとても大きく、長い顔をしています。そして、胴体もとっても長い。しかし、足は短い。足の長さと、顔の長さが、だいたい同じくらいです。これが、当時の流行だったんですかねー?
 庚申塔は笠付きの角柱型です。青面金剛は邪鬼を踏み付け、下部には三猿が彫られてあります。
 1752年(延享2年)に、建てられた庚申塔です。
 庚申講や、二十三夜講は、村単位で行われていた講です。講のメンバーの家に宿として集まり、祈願をしたのち、飲食をして過ごします。
 特定の寺院と結び付いた講には、成田講などがあります。神社と結び付くと、伊勢講、金毘羅講などがあります。修験道や山岳信仰と結び付くと、富士講、御岳講などがあります。
 村単位で行われる講と、特定の信仰集団と結び付いて行われる講とは、若干異なる部分があります。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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庚申塔
庚申塔

 笹の葉で隠れてしまっていますが、青面金剛が彫られているので、庚申塔です。
 主尊の青面金剛は、とても凛々しいお姿をしています。なかなかハンサムな、青面金剛です。青面金剛は、邪鬼を踏み付けています。
 台座には名前が書かれてありました。名前の下に、三猿が彫られてありました。
 1860年(安政7年)に、建てられた庚申塔です。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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庚申塔
庚申塔

 青面金剛が彫られた、庚申塔です。
 主尊の青面金剛は、しっかりと顔の表情まで確認することができます。かなり、硬い石材で造られているみたいです。ノミを入れた跡まで、残っています。
 石材がしっかりしているため、細部まで確認することができます。青面金剛は邪鬼を踏み付けており、邪鬼の周囲に三猿がいます。
 1763年(宝暦13年)、建てられた庚申塔です。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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庚申塔
庚申塔

 下部に三猿が彫られているので、庚申塔だと判断することができます。
 中央部分は風化が激しいのですが、「南無阿弥陀仏」と彫られてあります。
 本当は笠付きの角柱型の石塔のはずですが、笠は失われてしまったようです。笠が乗っかっていたんじゃないかなーっていう、跡だけが見えます。この場所に建ち並んでいる庚申塔は、石塔と笠が、バラバラになっている気がします。
 建てられた年代は、確認できませんでした。たぶん、江戸時代でしょう。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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庚申塔
庚申塔

 青面金剛が彫られた、庚申塔です。
 保存状態は、比較的良好なようです。主尊は、青面金剛です。雲の上に乗っている青面金剛で、下部には三猿が彫られてあります。青面金剛は顔の表情がわかるくらい、しっかりと残っているのですが。下部の三猿は、かなり手抜きをして、彫ってあるような気がします。もしかしたら、雲から上を彫った人と、雲から下の部分を彫った人と、違う人が作ったのかもしれません。雲より上の部分を彫った人が師匠で、下部を彫った人は弟子かな?
 1710年(宝永7年)に、建てられた庚申塔です。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
庚申塔
庚申塔

 本来は、笠付きの角柱型のはずなんですが。こちらの庚申塔も、笠の部分が失われています。地震で倒れたり、落ちたりして、割れちゃったのかもしれないですね。
 中央部分位は「南無阿弥陀仏」と彫られています。右側には「庚申供養塔」って彫られてあります。「南無阿弥陀仏」と念仏が彫られた庚申塔が多いのは、三戸に存在する寺院の影響だと思います。
 1732年(享保17年)に、建てられた庚申塔です。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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庚申塔
庚申塔

 文字が詠みづらいのですが、「南無阿弥陀仏」と彫られてあります。
 青面金剛や、庚申といった文字は確認できませんでしたが、庚申塔だと思います。
 下部には、名前が彫られてありました。

写真撮影:2008年10月04日

六十六部の碑

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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六十六部の碑
六十六部の碑

 こちらは、庚申塔ではなく、六十六部の碑ですね。三浦半島各地にある、六十六部の碑のひとつですね。三浦半島の場合、六十六部の碑は沿岸部に多いです。
 「六十六部回国修行」と書いてあります。主尊は、観音菩薩でしょう。
 建てられた年は、文字が風化してしまって読み取れませんでした。
三浦半島観光地図:三浦市初声町三戸・三戸浜海岸
三浦半島観光地図:三浦市初声町三戸・福泉寺
三浦半島観光地図:三浦市南下浦町上宮田・庚申塔、石仏
三浦半島観光地図:横須賀市長沢・庚申塔、祠、地蔵
 「六十六部」は、六十六部廻国聖のことです。省略されて六十六部と呼ばれ、さらに省略されて六部と呼ばれたりもします。
 日本全国66カ国を巡礼し、1国1ヶ所の霊場に、法華経を1部ずつ納める宗教者のことです。中世には専業宗教者が一般的で、山伏などと区別が付かないこともありました。江戸時代になると、一般人も行うようになりました。
 六十六がいつ頃から始まったのかは、わかっていません。鎌倉時代に始まったと考えられています。盛んに行われるようになったのは、江戸時代になってからです。
 原則としては、1国1ヶ所の霊場を回りますが、1国内で66ヶ所の霊場を巡ることもあります。特定の霊場があるわけではないといので、好きな霊場を回ることができるというのも、特徴です。

写真撮影:2008年10月04日

六十六部の碑

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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六十六部の碑
六十六部の碑

 庚申塔ではなくて、六十六部の碑です。
 主尊は、地蔵でしょう。右側に「六十六部供養塔」と彫られてありました。
 1781年(天明元年)に、建てられた六十六部供養塔です。
 江戸幕府の寺請制度では、原則的には自由な移動は禁止されていました。このため、行者は特定の会所に所属しその支配下に入らないと、諸国を巡礼することができませんでした。寛永寺、仁和寺、空也堂など大きな寺院が元締となり、免状を得ることで廻国巡礼を行いました。
 六十六部廻国聖は、本来は修行なのですが。江戸時代になると、観光旅行として行われることもありました。
 石碑が建つくらいなので、修行として行った六十六部廻国聖だと思います。納めるのは経典で、石碑ではないので。村人の中に、六十六部廻国聖を行った者がいたのかもしれません。無事に帰宅した記念に石碑を建てたのか、途中で無念の死を遂げて供養のために石碑を建てたのか・・・

写真撮影:2008年10月04日

道標

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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道標
道標

 庚申塔や六十六部の碑ではなく、単なる道標ですね。
 たぶん、「右、あじろみち」って書いてあると思う。小網代のことだと思うんだけど、文字を正確に読み取っているわけではないので、間違っていたりするかもしれないです。
 左側には「南無阿弥陀仏」って書いてありました。
 側面にも文字が書かれたあったのですが、写真を撮り忘れてしまいました。庚申塔の多い三浦半島では、道標はめずらしいので、ちゃんと確認しておけば良かった・・・
 現在は道標といえば、自治体が設置するのですが。当時の道標は、庚申供養塔として建立されることもありました。庚申塔を建てる代わりに、道標を建てたりします。こちらの道標も、庚申講で庚申供養塔の代わりに建てた道標だと思います。

写真撮影:2008年10月04日

地蔵

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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地蔵
地蔵

 謎の石塔。
 ほとんどの部分が失われてしまい、ほんの一部分だけが残されています。この石塔がなんだったのか、正体を調べるのはかなりの困難が・・・。というより、不可能だろう(^^ゞ
 なんとなーくなんですが、合掌しているっぽい手があるように見えます。なので、地蔵ではないかと推測してみました。

写真撮影:2008年10月04日

石塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
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石塔
石塔

 石塔です。
 「南無阿弥陀仏」って書いてあります。その下には「尋誉」って書いてあるので、尋誉上人が書いた「南無阿弥陀仏」の文字なんだと思います。
 庚申塔や六十六部の碑などのように、民間信仰の石塔ではないのではと思います。本当だったら、光照寺の境内にある石塔なんじゃないのかなーって気がします。
 側面や裏面も確認すれば良かったのですが、確認し忘れてしまいました。たくさんの石塔が建ち並んでいたので、写真を撮るだけでいっぱいいっぱいでした。1ヶ所に17基もの石塔があるから、多すぎて確認し忘れちゃいます。
 ただ、念仏供養塔とすると、民間信仰の石塔だと考えることができます。台座には、名前が書いてあったっぽい凹凸があるので、念仏供養塔の可能性も高いです。

写真撮影:2008年10月04日
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