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荒井郁之助


浦賀ドック創設の功労者

浦賀の渡し
浦賀の渡し

 1894年(明治27年)の秋、浦賀出身で相撲取りだった浦の海をともに連れた初老の男性がいました。体格の良い元相撲取りと二人、いつも浦賀の港を眺めていました。
 現代では「この男、大丈夫か」と思われてしまいそうですが、この男性こそが荒井郁之助です。
 初代中央気象台長を務め、退官後は浦賀に造船所を開設するために働いていました。
 1836年6月12日(天保7年4月29日)〜1909年(明治42年)7月19日。江戸時代末期の幕臣で、明治時代の官僚です。初代中央気象台長を勤めました。
 幼名は幾之助。諱は顕徳(あきのり)、後に顕理(あきよし)としました。従五位になっています。


中島三郎助との縁

浦賀の渡し
浦賀の渡し

 荒井郁之助が浦賀に造船所を建設することに力を注ぐようになったのは、3年前の1891年(明治24年)5月、西浦賀の愛宕山に浦賀奉行所与力だった中島三郎助の招魂碑が建てられたことがきっかけです。
三浦半島観光地図:横須賀市西浦賀・愛宕山公園
人物事典:中島三郎助
 招魂碑の除幕式の際、参列した榎本武揚や荒井郁之助らの提案によって、中島三郎助の遺志を継いで造船所建設計画を立ち上げました。
 中路三郎助と荒井郁之助の接点は、江戸築地に開設された幕府の海軍操練所で、ともに教授方を務めたことに始まります。1868年(明治元年)、榎本武揚の呼びかけに応じる形で、幕府軍艦に乗船して江戸湾を脱出、函館に渡った間柄でもあります。


東京生まれ

 1836年(天保7年)4月29日、江戸・湯島天神下上手代町(現在の東京都文京区)の組屋敷に生まれました。幼名は「幾之助」で、祖父・荒井清兵衛(顕徳)の幼名にちなんでいます。
 荒井家は幕府の御家人で、代々小普請方を務めている家柄でした。郁之助出生時には、曾祖母・祖父母・二人の叔父(成瀬善四郎・矢田堀景蔵)、一人の叔母が同居する大家族でした。
 父は幕府御家人で、後年に関東郡代付の代官を務めた荒井清兵衛(顕道)です。早くから昌平黌に学び、陸奥国塙(福島県塙町)代官、甲斐国市川(山梨県市川大門町)代官、陸奥国桑折(福島県桑折町)代官となり、のち関東代官になります。父子で明晰な頭脳の持ち主です。
 7歳から隣家に住む六笠弘太郎や叔父の矢田堀景蔵(鴻)を師として漢学・儒学を学びました。のちに海軍総裁にまで上り詰める矢田堀景蔵の影響で、海軍とのかかわりを持つようになりました。
 8歳で昌平坂学問所勤番組の内山孝太郎に入門します。14歳で湯島の昌平坂学問所に入学。15歳より六笠弘太郎の勧めで書家の関雪江に書道を学びます。12歳より叔父の薦めで、下谷御徒町に道場を持つ直心影流の石川瀬平治に剣術を学び、日置流・伴道雪派と言われる鵜殿十郎左衛門から弓術を学び、神田橋の渡辺半十郎から高麗流八条家の馬術を学びます。
 18歳になると西洋砲術を学びはじめ、20歳で幕府出仕(100俵10人扶持)、蘭学を修めた後、軍艦操練所教授を命じられました。

浦賀造船所開設が本格始動

浦賀ドック
浦賀の渡し

 1894年(明治27年)ごろから、浦賀造船所建設プロジェクトは本格化していきます。その事務所が、東浦賀の徳田屋の2階に開設されました。
 荒井郁之助は西浦賀の渡船場近くに家を借り、そこから東浦賀の事務所に通っていました。
 プロジェクトの中心人物は榎本武揚ですが、現役閣僚で、この時期は農商務大臣から文部大臣となり、さらに枢密顧問官、外務大臣と目まぐるしく職務が変わり、造船所建設に時間をかけている余裕がありませんでした。


実務を担当

 忙しくて時間の取れない榎本武揚に代わったのが、公務をやめたばかりの荒井郁之助でした。
 元相撲取りと海を眺めていたのは、その毛があったわけではなく、造船所創設の場所を選定していたからです。
 榎本武揚に宛てた手紙には、「浦賀の中心からゆっくり歩いて15分のところ、カキの養殖に適した入江で、百石〜三百石の船なら潮時を見て出入りができ、現地を調査したところ、ドック建設の適地であることを確認した。」と記していました。
 手紙の場所は、江戸末期に干鰯市場を作るために埋め立てが行われた場所です。1875年(明治8年)、水兵の基礎教育を行う屯営が置かれ、その後は陸軍の要塞砲兵練習所が置かれていた場所です。


用地買収

 陸軍用地となっていた場所は、榎本武揚の働きかけによって手に入れることができました。
 周辺の民間所有の土地を買収する交渉では、荒井郁之助と東浦賀に在住していた若村忠直などが折衝を担当していましたが、これが大いに難航しました。
 渋沢栄一の石川島造船所も浦賀に造船所を建設する計画があました。渋沢栄一らは、財力にものを言わせて次々と土地を買収していきました。町外れであるにもかかわらずかなりの好条件で買収していたため、荒井郁之助らの浦賀ドック建設には、なかなか良い返事が得られませんでした。
 榎本・荒井の浦賀ドックと、渋沢の石川島の対立はこの後も続き、新聞には「武士と町人の喧嘩」というタイトルで報じられるほど激化していきました。


浦賀ドック

 さまざまな難局を乗り越えて、1894年(明治29年)9月、浦賀ドックの設立総会にこぎつけました。
 ここまでのレールを作った荒井郁之助は、初代社長の座を塚原周造に譲る形で第一線を退きました。そして監査役として浦賀ドックを見守っていき、1909年(明治42年)、糖尿病が原因で74歳で亡くなりました。


逸話・エピソード

 1887年(明治20年)、新潟県の永明寺山(現在の三条市)で皆既日食観測を行い、日本で初めて太陽コロナの写真撮影に成功しています。
 海軍職に深く携わっていたのに、水泳が不得意でした。
 お酒は飲めず、甘いものが大好きでした。
 気象台長時代には、部下の報告書を見ても訂正することがなく、「至極結構」と言って許可していました。その結果、部下達からは「至極結構」というあだ名で呼ばれるようになってしまいました。

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