1836年(天保7年)4月29日、江戸・湯島天神下上手代町(現在の東京都文京区)の組屋敷に生まれました。幼名は「幾之助」で、祖父・荒井清兵衛(顕徳)の幼名にちなんでいます。
荒井家は幕府の御家人で、代々小普請方を務めている家柄でした。郁之助出生時には、曾祖母・祖父母・二人の叔父(成瀬善四郎・矢田堀景蔵)、一人の叔母が同居する大家族でした。
父は幕府御家人で、後年に関東郡代付の代官を務めた荒井清兵衛(顕道)です。早くから昌平黌に学び、陸奥国塙(福島県塙町)代官、甲斐国市川(山梨県市川大門町)代官、陸奥国桑折(福島県桑折町)代官となり、のち関東代官になります。父子で明晰な頭脳の持ち主です。
7歳から隣家に住む六笠弘太郎や叔父の矢田堀景蔵(鴻)を師として漢学・儒学を学びました。のちに海軍総裁にまで上り詰める矢田堀景蔵の影響で、海軍とのかかわりを持つようになりました。
8歳で昌平坂学問所勤番組の内山孝太郎に入門します。14歳で湯島の昌平坂学問所に入学。15歳より六笠弘太郎の勧めで書家の関雪江に書道を学びます。12歳より叔父の薦めで、下谷御徒町に道場を持つ直心影流の石川瀬平治に剣術を学び、日置流・伴道雪派と言われる鵜殿十郎左衛門から弓術を学び、神田橋の渡辺半十郎から高麗流八条家の馬術を学びます。
18歳になると西洋砲術を学びはじめ、20歳で幕府出仕(100俵10人扶持)、蘭学を修めた後、軍艦操練所教授を命じられました。 |