市制施行七十周年記念
横須賀風物百選
咸臨丸出港の碑
嘉永6年(1853年)6月3日、米国水師提督ペリーが黒船四隻を率いて浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸の近くに現れたから大変です。「太平の眠りをさまず上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
7年後の安政7年(1860年)、幕府は、日米趣向通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は、万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村摂津守喜毅を指揮官に、勝林太郎以下九十有余名の日本人乗組員で運航する咸臨丸を従わせることにしました。
1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は、品川沖で錨(いかり)をあげました。途中、横浜で、難破した米測量船クーパー号の船員11名を乗せ、16日の夕刻、浦賀に入港しました。それから2日間、食料や燃料、その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を、39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果たした咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う万延元年(1860年)5月5日でした。
この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向かい合うように、ゆかりの深いこの地に建てられたものです。
なお、ここ愛宕山公園は、明治26年開園の市内最古の公園です。また、後方に建つ招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。 |