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愛宕山公園


入り口

バス停紺屋町下車 徒歩3分
地図
愛宕山公園
愛宕山公園

 横須賀で一番古い公園だということ知っていたので探していましたが、長い間、どこに公園があるのか見付けることができませんでした。
 こんな小さな入り口だったとは・・・
 これじゃ、気が付かないよねー。
 しかも、山の上じゃん。

写真撮影:2009年04月13日

入り口

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕山公園
愛宕山公園

 愛宕山公園の入り口にある看板。
 以前は浦賀園って呼ばれていたのかな。
 浦賀の神社には鏝絵があるので、この看板も漆喰でできているのかな?

写真撮影:2009年04月13日

急な階段

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕山公園
愛宕山公園

 愛宕山公園に行くには、こんな急な階段を上らなくちゃいけません。うわぁ〜、大変だよー。
 膝がカクカクしてしまいます(^_^;)

写真撮影:2009年04月13日

愛宕山公園

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕山公園
愛宕山公園

 明治24年(1891年)に開園した市内で一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれました。
 浦賀奉行所与力・中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)の招魂碑が建立され篆額(てんがく)の題字は榎本武揚(えのもとたけあき)によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱によって浦賀船渠株式会社が創設された話は有名です。
 咸臨丸出港の碑には乗組員全員の名が刻まれています。
 与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。
 江戸時代には鐘撞堂(かねつきどう)があり、町中に時刻を知らせていました。

写真撮影:2009年04月13日

咸臨丸出港の碑

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕山公園
愛宕山公園

 咸臨丸に関しては、こちらのページを参考にしてください。
三浦半島観光地図:1860年・咸臨丸太平洋横断
 咸臨丸出港の碑には、日本人乗組員96人全員の名前が刻まれています。
 軍艦奉行、木村摂津守喜毅
 教授方頭取、勝麟太郎
 運用方、佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、鈴藤勇次郎
 測量方、小野友五郎、伴鉄太郎、松岡盤吉
 蒸気方、肥田浜五郎、山本金次郎
 通弁役、中浜万次郎
 公用方、吉岡勇平
 教授方手伝、小杉雅之進、根津鉄次郎、岡田井蔵、赤松大三郎
 医師、牧山修卿、木村宋俊
 公用方下役、小永井五八郎
 医師弟子、田中秀安、中村清太郎
 奉行従者、福沢諭吉、斉藤留蔵、秀島藤之助、大橋栄次、長尾幸作
 鉄砲方小頭、浜吉、実次郎
 水夫小頭、二作、音吉、善三郎、好平
 帆仕立役、政太郎、治作
 大工役、長吉
 鍛冶役、菊太郎
 塩飽島水主、吉松、源次郎、清右衛門、友吉、大助、和三郎、松太郎、寅吉、角之丞、善四郎、信次郎、宮三郎、仁助、清蔵、弥十郎、吉之助、金右衛門、國蔵、滝蔵、竹蔵、富蔵、勘次郎、伊三郎、幸三郎、源之助、常三郎、幸吉
 長崎水主、伊助、梅吉、久太夫、惣八、庄太郎、助次郎、栄吉、嘉右衛門、辰蔵、長次郎、九平、福次郎、大次郎、信吉、百太郎
 長崎火焚役小頭、嘉八、小三郎、九平
 火焚、紋太郎、又次郎、藤助、峰吉、辯之助、伊三郎、三四郎、善蔵、滝蔵、弥蔵、竹次郎、國太郎
 塩飽島水主、林之助、峯吉
 頭取従者
 昭和35年7月14日建立
 日米修好通商百年記念行事采井会長、石坂泰三
 横須賀市長、長野正義
 施工、横浜松本梅吉商店
人物事典:勝海舟

写真撮影:2009年04月13日

咸臨丸出港の碑

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕山公園
愛宕山公園

 市制施行七十周年記念
 横須賀風物百選
 咸臨丸出港の碑
 嘉永6年(1853年)6月3日、米国水師提督ペリーが黒船四隻を率いて浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸の近くに現れたから大変です。「太平の眠りをさまず上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
 7年後の安政7年(1860年)、幕府は、日米趣向通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は、万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村摂津守喜毅を指揮官に、勝林太郎以下九十有余名の日本人乗組員で運航する咸臨丸を従わせることにしました。
 1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は、品川沖で錨(いかり)をあげました。途中、横浜で、難破した米測量船クーパー号の船員11名を乗せ、16日の夕刻、浦賀に入港しました。それから2日間、食料や燃料、その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を、39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果たした咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う万延元年(1860年)5月5日でした。
 この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向かい合うように、ゆかりの深いこの地に建てられたものです。
 なお、ここ愛宕山公園は、明治26年開園の市内最古の公園です。また、後方に建つ招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。

写真撮影:2009年04月13日

中島三郎助招魂碑

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕山公園
愛宕山公園

 中島三郎助の招魂碑。愛宕山公園のメインがココになります。
人物事典:中島三郎助
 遊具があったり、グラウンドがあって遊んだりする公園ではありません。
 昔の公園って、こんな感じだったのかな?遊び場じゃないのかも。横須賀中央にある諏訪公園も山の上にあって、木々が生い茂り、遊べる場所ってほとんどないんですよねー。
三浦半島観光地図:横須賀市緑が丘・諏訪公園

写真撮影:2009年04月13日

中島三郎助招魂碑

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕山公園
愛宕山公園

 中島三郎助の招魂碑の前で記念撮影をしている男の子たち。
 一枚一枚の写真が高かった時代、こういった場所で記念写真を撮るってことは、中島三郎助って人物は浦賀では愛され続けてきた名士なんだなーっていうことがわかります。

写真撮影:----年--月--日

中島三郎助招魂碑

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕山公園
愛宕山公園

 中島三郎助の招魂碑の解説が書かれている石碑だったと思います。なんだったか忘れちゃった(^^;)
 明治24年、中島三郎助を追慕する浦賀の有志によって建てられました。
 篆額(てんがく)は、当時の外務大臣・榎本武揚の筆です。
 愛宕山公園は、中島三郎助招魂碑建立の際に整備されました。

写真撮影:2009年04月13日

中島三郎助招魂碑

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕山公園
愛宕山公園

 中島三郎助
 明治2年(1869年)5月、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の二十三回忌にあたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を生きた友人、知人たちによって建てられたのが真向いにある中島三郎助招魂碑である。碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があり五稜郭で共に戦った榎本武揚が記し、激動の時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の除幕の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意志を継いだ近代造船所を浦賀の地で開業することが決定した。
人物事典:荒井郁之助
 中島三郎助略年表
 文政4年(1821年)。浦賀奉行所与力・中島清司の次男として誕生。母は浦賀奉行所与力・樋田仲衛門の娘。
 天保6年(1835年)。浦賀奉行所与力見習勤として出仕。
 嘉永6年(1853年)。ペリー来航、応接掛として乗船。
 嘉永7年(1854年)。鳳凰丸竣工。
 慶応4年(1868年)。海陽丸で江戸脱出。
 明治2年(1869年)。千代ヶ岡砲台で息子恒太郎・英次郎とともに死去。

写真撮影:2009年04月13日

与謝野夫妻の文学碑

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕山公園
愛宕山公園

 すでに暗くなってしまったので、デジカメのフラッシュを使いました。
 不自然に明るくなっちゃいますね。
 与謝野寛と与謝野晶子の歌碑です。

写真撮影:2009年04月13日

与謝野夫妻の文学碑

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕山公園
愛宕山公園

 与謝野夫妻の文学碑
 碑の歌は、昭和10年3月3日与謝野寛(号・鉄幹)、晶子夫妻が同人たちとともに、観音埼、浦賀、久里浜を吟行した折り詠んだものである。思いのほかの寒さであったためか、寛は同月26日肺炎で没しているので、これは生涯最後の歌のひとつといえる。
 寛は、明治6年2月26日京都市左京区の願成寺に与謝野札巌の四男として、晶子(本名・志よう)は明治11年12月7日に大阪府堺市の菓子商鳳宗七の三女として生まれた。
 明治25年上京して落合直文の門下に入った寛は、33年の秋に「東京新詩社」を設立。翌年4月には機関誌「明星」を創刊し、ひろく青年層にロマンチシズムを鼓吹して、短歌の革新に貢献した。
 一方、寛の歌に深く心うたれた晶子は、新詩社社友となって「明星」2号に短歌を発表、以後毎号同誌に投稿する。
 晶子が、明治33年8月に講演のため来阪した寛をその宿に訪ねたのが、二人の最初の出会いであった。やがて恋愛の進展に伴い、34年6月晶子が上京、この秋正式に結婚した。
 同年8月に出版された晶子の第一歌集『みだれ髪』は、世の注目を浴び、新詩社黄金時代の幕開けとなった。二人は、明治30年代の詩歌壇を主導して、浪漫主義文芸の花を咲かせ、石川啄木、北原白秋、高村光太郎、佐藤春夫、堀口大学らの俊英を輩出した。
 代表作として、寛に『東西南北』、『天地玄黄』、『紫』、『鴉と雨』。晶子に『みだれ髪』、『小扇』、『舞姫』、『白桜衆』がある。
人物事典:北原白秋

写真撮影:2009年04月13日

稲荷社

バス停紺屋町下車 徒歩3分
稲荷社
稲荷社

 公園内に小さな稲荷がありました。
 屋根も傷んでいるし、ほとんど使われていないのかな。なんだかちょっと、かわいそうな神様です。
 お参りに訪れる人、少なそうな感じです。

写真撮影:2009年04月13日

謎の人形

バス停紺屋町下車 徒歩3分
愛宕山公園
愛宕山公園

 良くわからない陶器製の人形が飾られていました。
 しかも、お賽銭までありました。
 もしかして、ここはかつて祠かなにかがあって、この石はその基礎石なのかな?
 愛宕山公園に巨大な坂本龍馬像を建てるなんていう計画がありますが、この程度の大きさの坂本龍馬像ならいいけど、これ以上大きなものは建てないで欲しいですねー。
 坂本龍馬と愛宕山公園、何のゆかりもないですし、愛宕山公園が作られたのは中島三郎助の功績によるものだから、かなり場違いな感じがします。

写真撮影:2009年04月13日

水道

バス停紺屋町下車 徒歩3分
水道
水道

 誰も利用している人がいないんじゃないかなーと思いましたが、ポリタンクが置かれていたので使っている人もいるみたいです。
 「この水は飲めません」なんていう看板が掲げられていたので、飲料水として使っている人がいるのかも。
 この水は飲めません。
 この水道は公園下から、中継ポンプを経由し長い距離を惹いています。
 水道使用がこの水飲み場だけのため、使用水量が少なく、新鮮な水が供給されにくいので、手洗い等にご利用ください。
 よろしくお願いします。
 横須賀市。

写真撮影:2009年04月13日

トイレ

バス停紺屋町下車 徒歩3分
トイレ
トイレ

 愛犬家なので、こちらのトイレでマーキングしておこうと思いましたが、変な伝染病とか移りそうなのでやめときました(^_^;)

写真撮影:2009年04月13日
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