1495年(明応4年)、相模国西部を抑えていた小田原城主・大森藤頼が、駿河今川氏の軍師・伊勢宗瑞(のちの北条早雲)によって城を奪われました。
早雲は伊豆国と小田原を本拠として戦国大名化していき、関東へ本格的に進出を始めるようになります。
道寸は大森藤頼を保護して早雲と戦いました。しかし、早雲は山内上杉家と対抗するために1498年(明応7年)、上杉朝良・三浦道寸に対して同盟を提案します。話し合いの結果、上杉顕定が守護職だった伊豆を2分することで和解が成立し、早雲が伊豆半島を、義同が伊豆諸島を領有することになりました。
その後、早雲と朝良は上杉顕定を立河原の戦いで破りましたが、やがて両者は対立するようになっていきます。そのため、扇谷上杉家傘下となっていた三浦氏とも対立することになりました。
1510年(永正7年)、義同は小田原城の早雲を攻め、早雲も岡崎城に攻撃します。
こうして三浦氏と北条氏との直接対決の機運が高まっていきました。 |