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三浦義意


三浦義意という男

三浦義意の墓
三浦義意の墓

 三浦義意(みうらよしおき)は、1496年(明応5年)、三浦義同の嫡男として生まれました。佐原義連の子孫のあたります。
 通称は荒次郎。
 身長は7尺5寸(227cm)で、「八十五人力の勇士」の異名を持つ怪力の大男と伝えられています。
人物事典:三浦一族
人物事典:三浦一族系図
人物事典:三浦義同


新井城で滅亡

三浦義意
三浦義意

 父の三浦義同から相模国新井城(現在の三浦市三崎町小網代)を与えられ、1510年(永正7年)ごろに家督を譲られます。
 足利政氏や上杉朝良に従って北条早雲と戦いますが、1513年(永正10年)頃から岡崎城(現在の平塚市)を攻撃されるようになります。さらに、住吉城(現在の逗子市)も攻撃され、北条氏によって奪われてしまいました。

 居城を次々を奪われた三浦氏は三浦半島に押し込められ、新井城に籠城します。新井城は三方が海に面した天然の堅城で、三浦水軍の力を借りて戦いました。
 3年間に渡って籠城戦を繰り広げましたが、兵も兵糧も底を尽き、1516年(永正13年)、ついに落城してしまいます。
 義同の切腹に際して義意が介錯を承り、城内に攻め込んできた北条勢に討ち取られてしまいました。
三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代・新井城

 こうして三浦氏は滅亡し、北条氏が相模国を支配することになりました。

三浦義意の伝説

池月
池月

 『北条五代記』によれば、背丈は7尺5寸(227センチ)と伝えられています。
 新井城での最期の合戦で身に付けた鎧の鉄札の厚さは2分(6センチ)、白樫の丸太を1丈2寸(364センチ)に筒切りにしたものを八角に削り、節金を通して金砕棒にして戦いました。兜の頭上に振り下ろせば、粉々になって胴まで達し、横に払えば一振りで5人〜10人も押し潰したと言われています。
 この戦いで討たれた者は、500余名にも上ったと記されています。

 鉄板の厚さ6cmは異常な厚さで、通常は1mm程度の厚さしかありません。
 しかも、シラカシという樹木の材は非常に密で硬く、重量があります。
 脚色されている部分が大きいとは言えますが、怪力の男であったことは間違いないようです。

 激しい戦で亡くなった豪傑で、しかも21歳という若さだったため、三浦半島内では三浦義意の伝説も各地に残されています。
 討ち取られた後の義意の首は、3年間も生き続けたという伝説もあります。
三浦半島観光地図:横須賀市馬堀町・蹄の井

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