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新井城


新井城址

バス停油壷下車 徒歩10分
地図

 小網代湾と油壷湾の間に突き出た半島の先端部に、新井城の中心がありました。現在では、東京大学臨海実験所や、油壷マリンパークあたりになります。
 三浦氏は、宝治合戦の後、居城を何回か変え、1438年(永享10年)、三浦時高の代に、自然を利用した平山城である新井城を油壷に築造したといわれています。
 油壷バス停から実験所へ行く途中、左手の海の見えるあたりが新井城の木戸口(内城の大手口)で、ここには、内の引橋がありました。
 実験所構内には、城の様子を知ることのできる土塁、空掘、平場などの遺構が残っています。また、本丸跡や、敵を偵察する高櫓跡と思われる場所もあります。
 1516年(永正13年)、ここで後期三浦氏は滅亡しました。マリンパーク前の駐車場あたりで新井城最後の合戦が行われました。
 マリンパーク右手には、この辺りで戦死したという三浦義意(みうらよしもとorよしおき)のお墓があります。また、胴網の浜へ下る道の途中、小網代湾を望む断崖の上の二の丸跡という場所には、三浦義同(みうらよしあつ)のお墓があります。お墓の左面には、落城の際に詠んだ
 「討つものも 討たるるものも かわらけ(土器のこと)よ くだけてあとは もとの土くれ(土の塊のこと)」
 という辞世の歌が刻まれています。

三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代:三浦義同の墓
人物事典:三浦義同
三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代:三浦義意の墓
人物事典:三浦義意

写真撮影:----年--月--日

千駄やぐら

バス停油壷下車 徒歩10分

 臨海付属実験所の左手の崖にあるやぐらで、新井城の食料貯蔵庫として使用されました。
 どのくらいの食料が貯蔵されていたかというと、1駄とは馬の背に米俵を2俵積む事で、1駄=2俵、1000駄=2000俵ということになります。
 このほかに、6畳敷のやぐらが7つあったといわれています。幕末のペリー来航時には、浦賀からここに米俵を運び込んだともいわれています。
 三浦氏の城兵2000人が、7000人もの北条軍に対して、3年間も籠城する事ができたのは、このやぐらのおかげと、城ヶ島に家臣を配置して海からの物資輸送ルートを持っていたからだと考えられています。

写真撮影:----年--月--日

新井城

バス停油壷下車 徒歩10分
新井城
新井城

 1247年、宝治の合戦で三浦一族の多くが滅びたなか、佐原義連の孫の盛時は北条方に味方をして生き残りました。合戦が終わってから、本家代々の三浦介を継ぐことになりました。
 その後、戦国時代になると、盛時の子孫が三浦半島で強い力を持つようになり、居城を三浦市子網代の新井城に改めました。
 新井城は、三方を海に囲まれ、台地には谷戸が多く入り込んでいます。 敵が攻めにくい地の利をたくみに生かした、自然の要塞です。
 しかし三浦義同らは、1516年(永正13年)7月11日、北条早雲の軍勢に攻められ、落城しました。

三浦半島の歴史:人物事典・佐原義連
三浦半島の歴史:人物事典・佐原盛時
三浦半島の歴史:人物事典・北条早雲

写真撮影:----年--月--日

新井城

バス停油壺下車 徒歩10分
新井城
新井城

 新井城の史跡を示す説明看板。
 三浦一族滅亡の地である新井城は、面積約128ヘクタールの自然をそのまま利用した要害でした。
 相模湾に突出したこの一帯は、小網代湾と油壺湾にはさまれ、三方が海に面した断崖であり、陸路は、北方約3キロメートルの大手の引橋のみであり、この橋を切って落とせばどこからも攻め込まれないようになっていました。
 引橋はのちに地名になりましたが、ここで伊勢新九郎(北条早雲)勢は、橋を引かれて渡ることができず、三浦勢に時を稼がれています。
 現在は関東大震災による隆起で、往時の面影は薄らいでいますが、当時としては多くの軍勢をもってしても攻めがたく、わずかの手兵で3年間籠城することができました。三浦一族の奮闘もさることながら、城としても、守りにすぐれた構えであったといえます。
 室町時代の居館としての新井城の遺構は、本丸を中心にめぐらされている空堀や土塁に応じを偲ぶことができます。

写真撮影:2016年05月29日

新井城

バス停油壺下車 徒歩10分
新井城
新井城

The Ruins of Arai Castle
The land around Arai Castle coverd an area of approximately 128 hectares. It was utilized as a natural fortress for the castle which later saw the fall of the entire Miura clan.
While most of the area around Arai Castle just out and is surrounded by the Sagami Bay, it is also sandwiched between the Koajiro and Aburatsubo bays. It faces in three directions with cliffs, and the overland route goes about three kilometers to the north. With just the one bridge for travel, if it were to fall, there would be no way to get to the castle.
Later the bridge was named Hikibashi. The Miura faction of Iseshin Kurou (Houjyou Souen) tore the bridge down, and faction of Iseshin Kurou (Houjyou Souen) was unable to go into the area.
Due to the Great Kanto Earthquake the appearance of the area has changed and the land protrudes. Back at that time, however, large numbers of troops wanted to fight their way into the castle, but because of the natural and difficult wall protecting the castle only a handful of troops were necessary to keep the castle safe for three years. It was also a struggle for the Miura clan, but thanks to the structure and the area around the castle, they were able to be protected.
The ruins of the Arai Castle of the Muromachi Period, mainly the main enclosure, were used as a dry moat and for earth work for the people inside to be able to endure.

写真撮影:2016年05月29日

新井城

バス停油壺下車 徒歩10分
新井城
新井城

 新井城の説明看板のある場所。
 油壷のバス停から、荒井浜へと向かう小道の途中にあります。
三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代:荒井浜海岸
 道寸祭りで新井城の一般公開があるというので訪れてはみたんですが・・・
 シャッターは厳重に閉じられていました。おかしいなぁ〜?
 ここから入ることができると思っていたんだけど・・・
三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代:道寸祭り

写真撮影:2016年05月29日

堀切

バス停油壺下車 徒歩10分
堀切
堀切

 説明看板のあるシャッターの前から内部を覗くと、堀切らしき遺構を確認することができます。
 目の前に新井城の遺構があるのに、入れないなんてぇ〜(>_<)
 シャッターを乗り越えて侵入したいくらいです(^^;)

写真撮影:2016年05月29日

土塁

バス停油壺下車 徒歩10分
土塁
土塁

 新井城の遺構の土塁です。
 荒井浜へと続く小道から見ることができます。
 土塁の向こう側って、どうなっているんだろう?東京大学三崎臨海実験所関連の施設があるのはわかってるんだけど、 どんな建物があるのかなって。

写真撮影:2016年05月29日

油壺湾の案内看板

バス停油壺下車 徒歩10分
油壺湾の案内看板
油壺湾の案内看板

 油壺の名のいわれは、永正13年(1516年)新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立て籠もった三浦一族が北条早雲の大群を相手に、3年間にわたって奮戦しましたが空しくついに全滅し、一族の将三浦道寸義同(みうらどうすんよしあつ)をはじめその子孫荒次郎義意(あらじろうよしもと)は自刃、他の将兵も討ち死に、または油壺湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血潮で染まり、まるで油を流したような状態になったので後世「油壺」といわれるようになりました。
 北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。
 「今も七月十一日には毎年新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず、丑寅の方と未申の方より電かがやき出て両方光入乱れ風猛火を吹き上げ光のなかに異形異類の物有りて干戈(かんか)をみたし、虚空に兵馬駆け散り乱れ天地をひびかし戦う有様おそろしきと言うばかりなり云々」

写真撮影:2016年05月29日
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