本当の新井城の城主であり、本当の三浦一族最後の当主となった三浦義意。
多くの人は新井城の城主は三浦道寸である三浦義同であり、最後の当主も三浦義同であると勘違いをしていますが。
実際には、三浦義同は岡崎城の城主になっています。そして、家督を三浦義意に譲っているので、最後の当主は三浦義意になります。
人物事典:三浦義同
三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代:三浦義同の墓
人物事典:三浦義意
三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代:新井城
三浦義意は、「みうらよしおき」、または「みうらよしもと」と読みます。
通称は、三浦荒次郎です。身長は7尺5寸(227cm)、「八十五人力の勇士」の異名を持つ怪力の大男と伝えられています。新井城の攻防の末、21歳の若さで亡くなり、三浦一族は滅亡しました。
自害する際、自身で首をはね、首は小田原まで飛んでいき、胴はこの地のすぐ下の胴網海岸に落下したと言われています。その生首は、目を見開いたまま、まるで生きているようでした。北条氏がこの生首を供養するために高層を呼びましたが、効果のないまま3年の月日が流れました。
この話を聞いた総世寺の忠室(ちゅうしつ)は、生首に「うつつとも夢とも知らず一眠り 浮世の隙(ひま)をあけぼのの空」と詠んで手向けると、生首は白骨となったと言われています。この時、「今より禍いを福に転じ、永く当所の守護神となるべし」と聞こえたらしく、生首の掛かっていた松の木の下に祠を建て、義意の霊を祀ったのが居神神社(小田原市城山)でと伝えられています。
三浦義同の墓は、江戸時代中期の1782年(天明2年)、三浦一族の子孫、海蔵寺、永昌寺の住職が中心となって造立されました。
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