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三浦義意の墓


三浦義意の墓

バス停油壺下車 徒歩15分
地図

 本当の新井城の城主であり、本当の三浦一族最後の当主となった三浦義意。
 多くの人は新井城の城主は三浦道寸である三浦義同であり、最後の当主も三浦義同であると勘違いをしていますが。
 実際には、三浦義同は岡崎城の城主になっています。そして、家督を三浦義意に譲っているので、最後の当主は三浦義意になります。
人物事典:三浦義同
三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代:三浦義同の墓
人物事典:三浦義意
三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代:新井城

 三浦義意は、「みうらよしおき」、または「みうらよしもと」と読みます。
 通称は、三浦荒次郎です。身長は7尺5寸(227cm)、「八十五人力の勇士」の異名を持つ怪力の大男と伝えられています。新井城の攻防の末、21歳の若さで亡くなり、三浦一族は滅亡しました。

 自害する際、自身で首をはね、首は小田原まで飛んでいき、胴はこの地のすぐ下の胴網海岸に落下したと言われています。その生首は、目を見開いたまま、まるで生きているようでした。北条氏がこの生首を供養するために高層を呼びましたが、効果のないまま3年の月日が流れました。
  この話を聞いた総世寺の忠室(ちゅうしつ)は、生首に「うつつとも夢とも知らず一眠り 浮世の隙(ひま)をあけぼのの空」と詠んで手向けると、生首は白骨となったと言われています。この時、「今より禍いを福に転じ、永く当所の守護神となるべし」と聞こえたらしく、生首の掛かっていた松の木の下に祠を建て、義意の霊を祀ったのが居神神社(小田原市城山)でと伝えられています。

 三浦義同の墓は、江戸時代中期の1782年(天明2年)、三浦一族の子孫、海蔵寺、永昌寺の住職が中心となって造立されました。

写真撮影:----年--月--日

三浦義意の墓

バス停油壺下車 徒歩15分
三浦義意の墓
三浦義意の墓

 油壺マリンパーク周辺を徘徊し、やっと見付けることができた三浦義意の墓。
 駐車場の脇の茂みの中にありました。
 この場所、知らないと気が付かないですねー。案内看板もないので、見落としてしまうのではないでしょうか。
 私は見落としていました(^_^;)

写真撮影:2016年05月29日

三浦義意の墓

バス停油壺下車 徒歩15分
三浦義意の墓
三浦義意の墓

 三浦義意の墓も、三浦義同の墓と同じ造りになっていました。
 1782年(天明2年)、三浦義同の墓と同時に造立されているので、同じ造りになっています。
 墓石には三浦一族の家紋である丸に三つ引両が描かれていました。
 そして、「大龍院殿玄心安公大禅定門」という法名が刻まれていました。
 なんで、三浦義同は名前で、三浦義意は法名が刻まれているんだろう。

写真撮影:2016年05月29日

三浦義意の墓

バス停油壺下車 徒歩15分
三浦義意の墓
三浦義意の墓

 三浦義意のお墓にも、たくさんのお花とお酒がお供えされていました。
 現在、駐車場となっているあたりで激しい戦いを繰り広げ、この地で自害したということなのかもしれません。

写真撮影:2016年05月29日

新井城碑

バス停油壺下車 徒歩15分
新井城碑
新井城碑

 新井城碑。
 海蔵寺開基 武勇之本地址
 三浦陸奥守義同道寸公
 三浦弾正少弼義意公
 平成元年三浦道寸公父個大供養
 平成二年本尊十一面観音本開帳記念
 網代山主十八世海嶽耳雄建立
 平成二年庚午七月十一日富下破三毒土闇□英主遺芳
 海蔵寺守塔比丘耳雄建立
 稲垣石材店
 岡崎市上佐々木町
 こんな感じに文字が刻まれていたんですが、読み間違えてたかも・・・。こういうの読むの、苦手なんです。

写真撮影:2016年05月29日

石扉

バス停油壺下車 徒歩15分
石扉
石扉

 石製の扉には、三浦一族の家紋である「丸に三つ引両」が描かれていました。
 三浦一族の正式な家紋は「三浦三つ引両」でちょっと違うんですが、「丸に三つ引両」の方が多く見かけるようになりました。
 時代劇でも、「丸に三つ引両」が使われちゃっています。

写真撮影:2016年05月29日
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