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来迎寺


来迎寺

JR鎌倉駅下車 徒歩15分
地図
来迎寺
来迎寺

 とても立派な本堂が目に焼きつく来迎寺(らいこうじ)です。
 鎌倉時代の1280年頃、時宗を開いた一遍上人や、一向上人が建てたと伝えられています。昔はいくつかあったこのあたりの寺の中で、残っているのはこの来迎寺だけになりました。
 明治時代になってから、源頼朝の墓のそばにあった法華堂が廃されたので、そこに祭られていた仏像3体、鰐口(わにぐち)、手洗い石がこちらに移されました。
三浦半島観光地図:鎌倉市西御門・白旗神社(法華堂跡)

写真撮影:2007年02月28日

来迎寺

JR鎌倉駅下車 徒歩15分
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来迎寺
来迎寺

 この作りがいいですね、新しく立て直された本堂ですが、とても重厚感があります。立派なもんだ!
 1923年(大正12年)、関東大震災によって本堂が倒壊し、仏像は庫裏にまつられました。その後、1994年(平成6年)、鉄筋の大きな本堂が建てられ、仏像は本堂に安置されています。
三浦半島観光地図:1923年・関東大震災
 本堂には、胎内銘札から1384年(永徳4年)に作られた宅間浄宏(たくまじょうこう)作とみられる地蔵菩薩像があります。男性的な顔立ちで、法衣(ほうえ)をたらした宋風の様式です。元は報恩寺の本尊だったもので、太平寺に移され、さらに法華堂に移され、そしてこの来迎寺に移ってきました。
 跋陀婆羅尊者像(ばっだばらそんじゃぞう)は、お祈りをすると足腰の痛みが取れると信じられています。 「自休(じきゅう)さま」と呼ばれ、江戸時代には法華堂にあり、江ノ島の稚児ガ淵(ちごがふち)伝説の主人公と考えられていました。建長寺広徳庵の自休座主が鶴岡八幡宮の相承院の白菊という稚児にいいより、困った白菊が稚児ガ淵に身を投げ、自休もそのあとを追ったという話などがあります。また、自休と白菊は親子とも師弟ともいわれています。
三浦半島観光地図:鎌倉市雪ノ下・鶴岡八幡宮

写真撮影:2007年02月28日

来迎寺

JR鎌倉駅下車 徒歩15分
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来迎寺
来迎寺

 実に立派な本堂ですねー。上から見ると、また雰囲気が変わりますね。
 また、彩色した鮮やかな輪宝文(りんぽうもん)、ボタン、キク、唐草文(からくさもん)などの土紋(どもん)をつけ、宋元風の衣文(えもん)がみられる如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)は、南北朝時代に作られたとみられています。光福寺(こうふくじ)から、如意輪堂(にょいりんどう)に移され、法華堂に移され、この来迎寺に移されました。
 この如意輪観音の胎内には、由比の長者の一人娘の遺骨が納められているといわれています。
 昔、鎌倉に由比の長者と呼ばれる染屋太郎大夫時忠が住んでいました。大きな屋敷に大勢の家来を雇い、何不自由のない生活を送っていました。この長者の一人娘が由比ガ浜で遊んでいると、1羽の大鷲が飛んできて、あっという間に娘をさらっていってしまいました。八方手を尽くして娘の行方を探しましたが、見付かったのは変わり果てた娘の姿でした。そして、せめてもの供養のためにと、如意輪観音の胎内に遺骨を納めたそうです。

写真撮影:2007年02月28日

墓地

JR鎌倉駅下車 徒歩15分
地図
墓地
墓地

 これはもしや「切り通し」では!?と思って撮影した写真。ところが、階段を通り抜けても、そこは墓地でした。ただの墓地へ向かうための道のようです。
 来迎寺は、各地の仏像の集まるお寺です。

写真撮影:2007年02月28日

太平寺跡

JR鎌倉駅下車 徒歩15分
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太平寺跡
太平寺跡

 源頼朝の命を助けた、池禅尼(いけのぜんに)の姪が開山として建てたと伝えられている尼寺です。
 現在、本尊は東慶寺にまつられています。仏殿は国宝の円覚寺舎利殿になっています。太平寺の跡地は、横浜国立大学のテニスコートになっています。
 来迎寺の北側の奥まった谷間には、高松寺がありました。昭和になってから宮城県に移転しています。また、市立第二中学校は、報恩寺跡になります。

写真撮影:2007年02月28日
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