軍港都市横須賀のシンボルとなっていたのが、海軍工廠時代に造られたガントリークレーンです。
艦艇の大型化が急速に進行し、船体建造に必要な船台の拡張増設が随時行われていました。これまでの船台は3基ありましたが、砂浜の傾斜を利用した簡素な施設でした。
日露戦争開戦直前の(明治36年)4月、旧船台跡地に長さ150m、幅23.2mの第三船台を起工しました。完成直前の(明治38年)8月23日、伊吹型装甲巡洋艦二番艦の鞍馬が起工され、(明治40年10月21日)に進水しています。
(明治37年)2月15日、長さ150m、幅23.2mの第二船台を建設しています。船台は建設中でしたが、(明治38年5月15日)、薩摩が起工しています。
1906年(明治39年)、イギリスで戦艦ドレッドノートが誕生し、鞍馬・薩摩は進水前に旧式艦となってしまいました。
伊号戦艦建造を控えていた艦政本部は、初代ガントリークレーンの建設を決定し、船台を24.38m延長しました。
1907年(明治40年)11月、日露戦争のあと国産軍艦を建造する方針に従い、イギリスのサー・ウイリアム・アロル社と三菱造船によって建設されました。
1911年(明治44年)7月、暴風雨のため破損してしまいました。
1912年(明治45年)2月、新設計による大型ガントリークレーンの建設が始まり、1913年(大正2年)2月に完成しました。初代ガントリークレーンは、佐世保と舞鶴の海軍工廠に送られています。
1918年(大正7年)、戦艦陸奥の建造に合わせて、後方に延長工事を行いました。
戦前・戦中は、日本海軍の主力艦ともなっていた戦艦河内、比叡、陸奥など、多数の艦艇を建造してきました。
戦後はアメリカ軍の管理下に置かれ、1959年(昭和34年)頃から住友重機械工業株式会社で使用され、1959年(昭和35年)に国から住友重機械に払い下げられ、輸出船などを建造に使われました。
鋼材の腐食が激しく、大型船建造に適さなくなってきたため、1974年(昭和49年)12月に解体撤去されました。
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