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大泉寺


大泉寺

バス停走水神社下車 徒歩2分
地図
大泉寺
大泉寺

 水辺に生えるトクサの中に立つ、お寺の名前が刻まれた石碑。これを見るだけでも、水に囲まれた寺院であることがわかります。
身近な植物図鑑:トクサ
 山号は走水山、宗派は曹洞宗のお寺です。
 1590年(天正18年)、徳川家康が関東に入国した際、三浦郡代官頭の長谷川七左衛門長綱が逗子市沼間にある海宝院の伝英和尚を招き開山したお寺です。
三浦半島観光地図:逗子市沼間・海宝院
 翌年の1591年(天正19年)、徳川家康より御朱印2石が給付されました。

写真撮影:2008年04月02日

大泉寺

バス停走水神社下車 徒歩2分
大泉寺
大泉寺

 駐車場の先に本堂があります。私は特に意識することなく、お寺の中で一番多きな建物を「本堂」と呼んでいますが、宗派や寺院によって正式な呼び名は異なるみたいです。詳しいことはわからないので、私は本堂と呼んでいます。
 大泉寺では本尊が延命地蔵尊なので、地蔵堂と呼ぶのかもしれません。
 寺院の建物を伽藍と呼び、その配置を伽藍配置なんで呼ぶこともあります。伽藍はガランと読みます。ギャランデューではありません。
 本尊は延命地蔵です。室町時代初期の作と伝えられ、宋風彫刻木造地蔵菩薩坐像です。三浦地蔵尊三十番札所に数えられ、横須賀市の文化財に指定されています。
 漁業の村でもある走水の寺にふさわしく、漁篭に魚を入れた魚籃観音も祀られています。
 幕末になると、大津陣屋が造営された時に江戸湾沿岸の海防に従事していた川越藩の止宿となりました。以後、外国船出没などの非常時の際には、定宿にもなりました。
三浦半島観光地図:横須賀市大津町・大津陣屋跡

写真撮影:2008年04月02日

大泉寺

バス停走水神社下車 徒歩2分
大泉寺
大泉寺

 ドッシリとしていて、とても立派な本堂です。さすが、歴史のあるお寺さんは違いますね。
 墓地には川越藩士の墓が1基、現在でも残っています。探してはみたんですが、残念ながら見付けられませんでした。家族で川越から三浦半島に引っ越して海防の任務に就き、故郷に帰れぬまま亡くなってしまった藩士のことを考えると、なんだかかわいそうになりますね。親戚や子孫に守られることもなく、無縁仏となってしまいます。幕末に東京湾防備の任務に就き亡くなった藩士のお墓、三浦半島各地のお寺に残されています。
三浦半島観光地図:横須賀市大津町・信誠寺

写真撮影:2008年04月02日

木造地蔵菩薩坐像

バス停走水神社下車 徒歩2分
木造地蔵菩薩坐像
木造地蔵菩薩坐像

 本尊は横須賀市指定重要文化財の、木造地蔵菩薩坐像です。右手に錫杖、左手に宝珠を持って安座する通形の地蔵菩薩像です。
 構造は寄せ木造りで、玉眼を入れ、裳裾(一部は欠損しています)を長く垂下します。肉身部は漆箔、着衣部は漆塗りで、光背・台座・持物は後補です。
 法量は小さいものの総体に量感を失わず、吊り上がり気味の細い両目に独特の強い面部、かなり複雑に刻んだ衣文のシワなど、いずれにもまだ写実性がみられます。やや俯瞰的に現した膝部、波打つような衣文、垂下する裳先など、明らかに宋風彫刻の流れを汲むことが示されています。作風からみて室町時代も初期の頃、鎌倉仏師が造立したと考えられ、この頃の典型的な宋風彫刻として貴重な作品です。

写真撮影:----年--月--日

水掛地蔵と水琴窟

バス停走水神社下車 徒歩2分
水掛地蔵と水琴窟
水掛地蔵と水琴窟

 可愛らしいお地蔵さんの、水掛け地蔵。柄杓を使って水を掛けてあげました。最近になって作られたみたいですね、新しそうな地蔵尊です。
 全国津々浦々に水かけ地蔵は存在しますが、湧水の豊富な走水ならではといった風情を感じます。走水の中でも、大泉寺は特に湧水が豊富なようです。
 お地蔵様に水を掛けますが、いきなり頭のてっぺんから水を掛けちゃダメですよ。人間だって、いきなり頭の上から水を掛けられたら腹が立つでしょ?まずは足元からそっと水を掛けてあげて、両肩にかけて、そのあと頭に水をかけてあげてください。人がお風呂に入る時にお湯を浴びる順番と同じです。
 そしたら両手を合わせて、お願い事をします。両手を合わせて、カンチョーとかしないように(^^;)
 隣には水琴窟があり、竹筒の穴に耳を傾けると、琴を弾いているような涼しげな音色が聞こえてきます。
 水琴窟の説明板には、「紫陽花と水琴行者」と書かれており、「うるおしの水琴窟、聞こえましたか?今、あなたが流した水が奏でた音を・・・。水琴窟は江戸時代後期(1800年頃)に作られ、しずくの風情を楽しんでいました。時代と共に消え去りましたが、近年、水おとの芸術として見直されています。」と書いてあります。
 本来は排水を目的として考案された、日本庭園にある「洞水門」が起源だと考えられています。蹲踞(つくばい)や手水鉢の地下に造られ、底に小さな穴を開けた甕を伏せて埋め、水が甕の天井から水滴になって落ちるように工夫して作ります。甕の底に溜まった水面に落ちる水滴の音が甕の空洞で共鳴し、琴の音に似た音を響かせることから水琴窟と呼ばれるようになりました。しかし構造的に甕の内部にゴミが貯まってしまうため、数年後には音が出なくなってしまいます。
 昭和になると水琴窟そのものの存在が忘れられてしまいましたが、1985年(昭和60年)、岐阜県美濃市今井邸水琴窟発見と復元のドキュメンタリー番組がNHKによって放送されて以来、お寺や庭園で設置されるようになってきました。
 水かけ地蔵の手前にある茶色い物体、たぶん揚水ポンプだと思います。

写真撮影:2008年04月02日

み仏の泉

バス停走水神社下車 徒歩2分
み仏の泉
み仏の泉

 高く積まれた屋根瓦から、滝のように流れ落ちる水。清水と同じく、そこかしこに屋根瓦や屋根瓦の破片が置かれているのが気になったのですが、本堂修復前に使われていた屋根瓦でしょうか?屋根瓦の数、尋常ないほどたくさんありました。
 史上、初めて瓦が登場するのは約2800年前の中国とされています。日本国内には約1420年前の西暦588年、百済から仏教と共に伝来し、飛鳥寺で初めて使用されました。飛鳥時代では、寺院のみに瓦葺きが許されました。日本最古の瓦は飛鳥時代のもので、元興寺の極楽坊本堂と禅室に葺かれている瓦とされています。
 奈良時代、平安時代になると、瓦は寺院、宮殿、官衙、地方の国府や国分寺でも使われるようになりました。
 近世になると、城郭へも用いられるようになります。江戸時代には、火事対策が課題となり、耐火建築用品として瓦が使用されるようになりました。

写真撮影:2008年04月02日

み仏の泉

バス停走水神社下車 徒歩2分
み仏の泉
み仏の泉

 境内のそこかしこから、清水が流れています。本当に水が豊富な場所なんですね。
 仏様のありがたいお水ですね。大切にしましょうね。
 水が豊富だし、大泉寺の駐車場も目の前なので、洗車に使いたいくらいですねー。だってこの水を使えば、水道料金が発生しないし、交通事故に遭うこともなくなり、車がピカピカになるような気がする・・・

写真撮影:2008年04月02日

バス停走水神社下車 徒歩2分
池

 境内には小さいながらも池があり、錦鯉が泳いでいました。
身近な魚類図鑑:コイ
 これだけ湧水が豊富だと、池の水にも困ることはないと思います。自宅の水槽で小型の熱帯魚を飼育していますが、濾過を働かせるために試行錯誤をしています。流れ出る湧水が羨ましい!
身近な生き物図鑑:アクアリウム水槽の様子

写真撮影:2008年04月02日

ししおどし

バス停走水神社下車 徒歩2分
ししおどし
ししおどし

 「コレ、何だったっけー、竹でできてて、水が溜まるとコーンて音が鳴るヤツ」。そう、それはズバリ、「ししおどし」でしょう!丸尾末広をヨロシクお願いします。
 見るたびに名前を忘れちゃう、ししおどしです。ししおどしという言葉から普通に連想すると、「獅子脅し」だと思ってしまいますが、本当は「鹿威し」です。イノシシを驚かせて、追い払うための物だと勘違いされることが多いです。ちなみに、イノシシは漢字で猪で、漢字で獅子はライオンのことです。
身近な動物図鑑:ライオン
 農業などで被害を与える鳥獣を威嚇し、追い払うために設置されます。案山子(かかし)や、鳴子(なるこ)と同じ役目をしてくれます。
 中央付近に支点を作り、一方を斜めに切った竹筒に水が入るように作ります。水が満杯になるとその重みで自動的に竹筒が傾き、水がこぼれて内部が空になります。竹筒が元の位置に戻る際に石などに当たって「コーン」という音を出します。
 風流としてその音が好まれ、日本庭園の装飾として設置されるようになりました。
 似たような原理を利用した・・・かどうかは不明ですが、「平和鳥」と呼ばれるおもちゃがあります。ご存知の方、何人くらいいるかな?

写真撮影:2008年04月02日

五重塔

バス停走水神社下車 徒歩2分
五重塔
五重塔

 余り目にすることのない、金属製の五重塔。鉄製だし、海が近いため、傷みが激しくかなり錆び付いてしまっています。鉄製の五重塔なんて、いつ頃の作品なのか気になりますね。
 送電線鉄塔をメインに取り扱っている鉄塔のページに掲載しようかとも思ったんですが、大泉寺の入り口付近に建てられていたので、こちらのページで掲載することにしました。
 仏教と共に仏塔が渡来しました。はじめは朝鮮系のもの、続いて中国直系のもの、さらに南方仏教系の塔が建立されました。
 平安時代の天台宗、真言宗では、インド式の古塔を建造しました。藤原末期〜鎌倉時代になると、従来の外来式の他に日本式仏塔も作られ、五重塔などの石塔が流行しました。
 多層塔には、三重塔、五重塔、十三重塔などがありますが、最古の木造仏塔は法隆寺の五重塔です。有名な薬師寺東塔は、一見すると六重塔に見えますが、各層に裳階(もこし)が付けられているため、三重塔です。長野県の安楽寺にある三重塔は、裳階があるため四重塔に見えます。

写真撮影:2008年04月02日

六地蔵

バス停走水神社下車 徒歩2分
六地蔵
六地蔵

 六地蔵なんだけど、ちゃんと数えると6人以上いるんですよね。合計で8人もいるので、正確には八地蔵と呼ぶべきなのでしょうか。ただし2人は、身長が違うし、外見も作りも違うので、作られた時期が異なるようです。
 中世では関西に多かった石地蔵ですが、近世になると関東で多く作られるようになりました。大人〜子供まで、村人たちに親しまれてきた地蔵です。
 六地蔵は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道、どこにいても救いの手を差し伸べる六道救済のための地蔵です。6つの分身として彫刻される六地蔵の石仏は室町時代からはじまり、江戸時代にはさまざまな形状で作られるようになりました。
 六地蔵は種類が多いのが特徴で、別石六地蔵、舟形浮彫り六地蔵、六面幢六地蔵、一石六地蔵、一石二段六地蔵、一石三面六地蔵、舟形二段六地蔵、角柱六地蔵などがあります。

写真撮影:2008年04月02日

一字一石法華塔

バス停走水神社下車 徒歩2分
一字一石法華塔
一字一石法華塔

 1837年(天保8年)9月吉日に建てられた、一字一石法華塔。たぶん法華塔って彫られていると思うんだけど、もしかしたら供養塔って彫られているのかもしません。でも一時一石供養塔って、ちょっと意味合いが違ってきてしまう気がするので、法華塔にしておきます。
 実は天保8年も、本当かどうか怪しい(^^;)。ちょうど○年と書かれている部分が消えかけていたので、見間違っているかもしれない。
 一字一石なんて聞き慣れない言葉かもしれません。一石二鳥とか一字千金、一朝一夕などはご存知かと思いますが。
 経石(きょういし)と言って、仏教経典の文章の1文字を書き写した石が埋められています。経石には河原の小石が使われますが、走水という土地柄から海岸の小石が使われたと思います。
 1文字ずつ書かれた小石を甕の中に収め、その上に石塔を建てるのが一般的です。近世に流行した風習です。

写真撮影:2008年04月02日

大石さんの墓

バス停走水神社下車 徒歩2分
大石さんの墓
大石さんの墓

 大石さんのお墓です。忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄の墓ではありません。丸の内三つ鱗の家紋が彫られてありましたが、もしかして後北条氏の末裔?
 陸軍工兵で階級は上等兵です。勲八等、功七級、大石鐵吉の墓です。
 工兵は、土木建築などの技術に特化した部隊のことです。敵の防禦陣地や自然障礙の破壊、野戦築城、道路建設、爆破工作、塹壕掘り、地雷原敷設などの任務に就きます。
 上等兵は、数ある階級の中で下から3番目にあたります。一番下が二等兵、そして一等兵、上等兵となります。階級が低くても、国のために亡くなったことで立派な墓石が立てられます。

写真撮影:2008年04月02日

菱倉さんの墓

バス停走水神社下車 徒歩2分
菱倉さんの墓
菱倉さんの墓

 軍人さんのお墓です。一般的に軍人さんのお墓は、軍人としての階級に関わらずとても大きくて立派に作られています。お墓が立てられる場所も、寺院の入り口付近、もしくは墓地の入り口付近となっています。
 これは遺族の意思によるものではなく、戦没者は国のために命を犠牲にしたので、誰もが目にすることができ、大きくて立派な墓石を建てるようにという政府からの要望があったからです。
 こうした大きくて立派な墓石は、寄付を募るなどしてお金を集めて建てられます。戦争中に戦死した場合は、遺骨がないお墓もたくさんあり、遺骨の代わりに遺髪や遺品を納めたり、供養塔や記念碑としての意味も持っています。
 海軍の一等機関兵曹で、勲七等、菱倉力蔵の墓です。
 階級が一等兵曹で、エンジン部分を専門に取り扱う任務に就いていたと思われます。

写真撮影:2008年04月02日

宇野さんのお墓

バス停走水神社下車 徒歩2分
宇野さんのお墓
宇野さんのお墓

 私が大泉寺を訪れた際には、海の見える合同納骨堂墓地「永代志縁陵」の受け付けを行っていました。使用者の子孫に代わって、また後継者のない人のため、維持管理して供養してくれる共同納骨墓地です。
 永代使用料、永代管理料を含めて、1壇70万円だそうです。
 現在でも募集しているかどうかは、わりません。
 陸軍の工兵で一等兵、勲七等、宇野孝八の墓です。
 「勲」というのは勲等のことです。律令制度が出来た当時、従五位下とか正三位などと呼ばれていたものが、明治時代になって勲等とうい制度ができました。授与される際には、勲章も贈られます。古物商に行くと、この勲章が売られているのを見かけることがあると思います。
 軍人の場合、功級が与えられることもあります。

写真撮影:2008年04月02日

石地蔵

バス停走水神社下車 徒歩2分
石地蔵
石地蔵

 大きなフキの葉に、隠れるように建っている石地蔵。
身近な植物図鑑:フキ
 さまざまな目的で立てられることの多い石地蔵。墓石であったり供養のためであったり、地蔵信仰として建てられることも多々あります。幼くして亡くなった子供の墓石に刻まれることが多いのも、石地蔵の特徴です。
 そのため石地蔵だけを見ても、なんのために建てられた石仏なのか判断することは難しいです。

写真撮影:2008年04月02日

庚申塔

バス停走水神社下車 徒歩2分
庚申塔
庚申塔

 笠がズレてますね。写真を撮影するために、笠をずらしたわけではありません。最初からズレていました。地震がくると、落下して壊れてしまうかもしれません。こうした石仏は固定されているわけではないので、地震が来ると意外と簡単に倒れてしまいます。
 三浦半島にはたくさんの庚申塔が残されていますが、倒れて壊れてしまった庚申塔の数も多いのではないでしょうか。
 この庚申塔は1728年(享保13年)に建てられたものです。主尊は青面金剛です。
 庚申信仰は、人の体内にいる三尸(さんし)の虫が、60日毎に回ってくる庚申の夜、天に昇ってその人の罪科を天帝に告げるため命が縮められるとする、中国の道教の教えが元になっています。昔の人なので、寄生虫を三尸の虫に例えたのかもしれません。
 そして庚申の夜には、眠らずに言行を慎み、健康長寿を祈願する信仰遊戯が行われるようになりました。
 庚申信仰には道教の信仰が底流にあり、これに仏教的な信仰が加わることで、室町時代には庚申待(こうしんまち)をする講が結ばれ、月待講による供養塔造立にならった庚申塔造立が始まりました。
 庚申待の行事、庚申塔の造立は、人の延命招福にありますが、村の講中の者が徹夜で酒食をとることから、村人の連帯にも繋がりました。

写真撮影:2008年04月02日

庚申塔

バス停走水神社下車 徒歩2分
庚申塔
庚申塔

 草村の中に立つ庚申塔。あまり管理されていないのか、わざと緑豊かな植え込みにしているのかは、わかりませんが。庚申塔の周辺にも、屋根瓦が置かれてありました。
 この庚申塔は1773年(安永2年)に建てられたものです。主尊は青面金剛です。
 江戸時代になると、造形的に多様な種類をとって沖縄を除く全国各地で造立されるようになりました。道端の石仏に中でもっとも親しまれています。三浦半島内では聞いたことがありませんが、現在でも庚申講が行われている場所もあります。
 室町時代後期の庚申待板碑には阿弥陀如来を本尊とするものが作られていました。江戸時代になると疫病から身を守ってくれる青面金剛、道案内の神様の猿田彦神などを本尊とするようになりました。特に決まりはないようです。
 青面金剛の神使である猿が彫られるのは、見ざる、聞かざる、言わざるという謹慎態度を示すためのようです。日月や鶏を彫刻するのは日待月待信仰から、邪気を彫刻するのは魔性を圧伏する意味からきているものと言われています。
 庚申塔の造立を月別にみると、11月が圧倒的に多く、7月がもっとも少ないです。

写真撮影:2008年04月02日

庚申塔

バス停走水神社下車 徒歩2分
庚申塔
庚申塔

 笠のない庚申塔。どちらかというと、笠のない庚申塔の方が多いです。時代が経過するに従って、笠がなくなり、作りも簡略化されるようになっていきます。
 この庚申塔は、1797年(寛政9年)に建てられたものです。主尊は青面金剛です。
 江戸時代前期、寛文・延宝の頃までに造立された庚申塔は、庚申講の結衆の銘、舟型、猿だけが刻まれた、シンプルなものが多いです。
 江戸時代中期、元禄前後〜享保の頃に建てられた庚申塔は、青面金剛が刻まれ、豪華で飾りがとても賑やかなものが多いです。
 江戸時代後期になると、角型、自然石型が増加します。デザインも簡略化され、文字だけのものが多くなりますが、文字そのものに工夫を凝らしてあります。

写真撮影:2008年04月02日

庚申塔

バス停走水神社下車 徒歩2分
庚申塔
庚申塔

 大泉寺にある庚申塔群は、このような感じに立っています。
 手前の庚申塔は1860年(万延元年)に建てられたものです。文字碑で「庚申塚」と書かれてあります。「庚申塔」や「庚申供養塔」と書かれることが多いのですが、「庚申塚」と書かれるのはめずらしいかもしれません。塚としての役目も果たしていたのでしょうか。
 もうひとつの庚申塔は、1823年(文政6年)に建てられたものです。文字碑で青面金剛供養塔と書かれてあります。
 倒壊していた庚申塔も1基ありました。1779年(安永8年)に建てられたものでした。
 全部で合計6基の庚申塔があるみたいです。

写真撮影:2008年04月02日
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