これはやはり、地球外知的生命体でしょうか。つまり宇宙人。日本の江戸時代、この走水の地に宇宙人が遭難してきたのかもしれません。
世界各地に宇宙人らしき存在が歴史的遺物などとして残されているので、走水の地にも宇宙人が訪れていてもおかしくないと思います。その姿をみた石工が、3人の宇宙人を石仏として残したのかもしれません。
会津藩は江戸幕府の命を受け、ある者は単身で、またある者は家族も連れ、三浦半島の海岸警備と台場構築のために派遣されました。会津藩は、走水、浦賀、城ヶ島の3ヶ所に砲台場を造り、浦賀の平根山、観音崎、三崎の北条山に陣屋を設けて外国船に備えました。
遠く離れた異郷の地での生活はつらく厳しいものであっただろうことは想像に難くありません。子弟を教育するため、三崎に集義館を、観音崎に養正館という藩の学校を建てました。養正館には、約40名の生徒がいたと記録されています。
1820年(文政3年)、沿岸警備の任務が会津藩から浦賀奉行に移り、会津藩はその任を解かれますが、ペリーが来航した1853年(嘉永6年)には房総半島で再び任務に就き、ペリーが久里浜へ上陸した時には海上警備を担当しました。
病没した藩士やその家族48名は、走水の円照寺、鴨居地区腰越の山腹、能満寺、西徳寺の墓地に葬られました。
明治維新で会津藩が新政府軍に敗れると、会津を離れ横須賀へ移り住んだ人も多く、その子孫は現在も市内に住んでいます。
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