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走水神社


鳥居

バス停走水神社下車 徒歩1分
地図
鳥居
鳥居

 国道16号線からちょっと路地に入るとすぐ見えてくる、走水神社の鳥居。海沿いに立ち並ぶ住宅街にある神社です。車を運転する人なら、鳥居を一瞬だけ見たことあるんじゃないかな?
 やや青味を帯びた灰色をした明神鳥居。自衛隊の航空機に似た色ですね。海の神様なので、水色なのかも。
 走水神社は、横須賀市制執行七十周年記念の横須賀風物百選のひとつとなっています。
 走水の地名は、712年の古事記、720年の日本書紀の中にすでに記されています。横須賀という地名よりも、由緒正しき地名です。大和朝廷時代には、上総(現在の千葉県)を経て東北地方に渡るもっとも便利な道として、この地方に古東海道が通じていました。
 走水神社の祭神は、12代景行天皇の皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)と、その后の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の二柱です。
 神社の創建された年代については、享保年間の火災により、神社の記録や社宝が焼失してしまい詳細は不明となってしまいました。社殿は明治時代になって整備されたものです。しかし地元には伝説として、神社の由来が伝わっており、古事記や日本書紀にも見ることができます。

写真撮影:2008年04月02日

鳥居

バス停走水神社下車 徒歩1分
鳥居
鳥居

 走水神社の近くまで来ました。ちょうど桜が満開になっていて、とても綺麗でした。走水神社が一番綺麗な季節に、訪れることができたのかもしれない。
 掃除をしているおばさんがいました。他にも境内を掃除している人がいたので、近所の人に愛されている神社みたいです。
 景行天皇即位40年(110年)、東国の蝦夷が叛くため、その鎮定を日本武尊に命じました。日本武尊は勅命を奉じて伊勢神宮に参拝し、戦勝祈願をし、神宮の斎宮である叔母の倭姫命(わのひめみこ)から神宝の天叢雲之剣(あめのむらくものつるぎ)と火打袋を授けられ、東国征討の軍を起こしました。途中、静岡の焼津で賊に騙され火攻の難に遭遇しましたが、天叢雲之剣で草を薙ぎ払い向火を放ち形勢逆転させ賊を討伐したことから、草薙之剣とも呼ばれています。現在、熱田神宮の神宝となっています。
 日本武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り、走水の地に到着し、御所(御座所)を建てました。このことから、御所を建てた場所は御所ヶ崎と呼ばれています。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・御所ヶ崎

写真撮影:2008年04月02日

狛犬

バス停走水神社下車 徒歩1分
狛犬
狛犬

 狛犬です。三浦半島内では、ちょっと変わったデザインの狛犬なんじゃないでしょうか。身体のサイズに対して、顔のサイズがとても小さいのが特徴です。そのわりに口が大きいので、アンバランスな印象を受けます。装飾もいたってシンプルです。
 痛みが激しいので、今後が心配ですね。このまま残してもらえればいいのですが・・・。新しい味気のない狛犬に取って代わられてしまうと、とても残念な気持ちになります。
 奉納した人々の名前を見てみると、宇野、飯嶋、渡邊、石渡、宇埜、?井、大貝、村松、長塚、村田などの名字が見られます。
 建立年は弘化4年(1847年)9月吉日です。石工は新吉によるものです。

写真撮影:2008年04月02日

狛犬

バス停走水神社下車 徒歩1分
狛犬
狛犬

 桜を背負った狛犬の姿。なかなか凛々しいですね。
 走水の地で軍船などの準備し、上総に出発する際に村人たちが日本武尊と弟橘媛命を慕い、冠を村人に与えました。村人たちはその冠を石櫃に納めて、その上に社殿を建て日本武尊を祭ったのは走水神社の創建と伝えられています。
 日本武尊は軍船で一気に上総国(現在の千葉県)に渡ろうと船出しましたが、海上で突然強い風が吹き海は荒れ狂い、軍船は波にもまれて進むことも戻ることもできなくなってしまいました。あわや転覆するかという危機に、日本武尊に付き添って来た弟橘媛命は、「こうも海が荒れ狂うのは、海神の荒ぶる心のなせること。私が海に入り荒ぶる神の御霊を鎮めますほどに、尊様は心置きなく勅命を奉じて、その任を完遂して欲しい。」と告げます。
 「さねさし さがむのおぬに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と、辞詠を残し、菅畳8重、皮畳8重、あしぎぬ畳8重を波の上に敷いて激浪に身を投げたところ、風は止み、波は静まり、日本武尊一行の軍船は、水上を走るかのように上総の国に到着しました。このことから地名の由来を、水走る、走水と言われています。(地名の由来には諸説あります)

写真撮影:2008年04月02日

石柱

バス停走水神社下車 徒歩1分
石柱
石柱

 境内にあった謎の円柱状の石柱。かつて鳥居に使われていた石材でしょうか。それとも神社の名前が書かれていた石柱なのでしょうか。
 神社に行くと、謎の石柱って良く見かけるんですよねー。多くの場合、折れた石柱なんですよね。
 上総、下総、常陸(現在の茨城県)、日高見(東北地方のどこか)の国々の蝦夷を討ち平らげました。都に帰る途中、碓氷坂からはるか東方に光る走水の海の輝きを眺め、海に身を投じて武運を開いてくれた弟橘媛命を偲び「ああ吾が妻よ」と三嘆したといいます。このことから東国を東(あずま)と呼ぶようになりました。各地に残る吾妻神社は、弟橘媛命を祭った神社です。
 また、木更津という地名も、「君不去」と書いて「きみさらず」と読み、それが訛ったものと言われています。木更津市には吾妻という地名が現在でもあり、吾妻神社があります。
三浦半島観光地図:千葉県木更津市吾妻
 日本武尊は帰路の途中、伊吹山の賊との戦いの後に病にかかり、伊勢国能褒野で亡くなりました。享年、33歳でした。
 弟橘媛命が入水して数日後、海岸には櫛が流れ着きました。村人はその櫛を、日本武尊と弟橘媛命が住んでいた御所ヶ崎に社を建てて納めました。これが橘神社の創建と伝えられています。
 橘神社は明治18年に御所ヶ崎が軍用地として接収されたため、走水神社境内に移され、明治42年に走水神社に合祀されました。

写真撮影:2008年04月02日

手水舎

バス停走水神社下車 徒歩1分
手水舎
手水舎

 走水神社の手水舎。走水は地下水がとても豊富な場所です。井戸もたくさんあります。
 走水神社の手水舎の水は水道水ではなく、湧水です。深さ30mから湧き出ているミネラルを含んでいる真水です。富士山から長い年月を経て、このあたり一帯に湧き出ていると伝えられています。
 走水はかつては宿場町として栄えた場所で、船に積む飲料水として使用されていました。
 手水舎の水は、神社参拝に際して手や口をすすぎ、身体を清めるための水です。氏子によって毎日掃除をしたり、保健所の検査を受けて管理されています。そのため湧水であっても、商売に使用するための水ではありません。また、一度に大量の水をくむのがご遠慮くださいませ。大量にくんで持ち帰っても、長時間の保存はできません。

写真撮影:2008年04月02日

御砂倉

バス停走水神社下車 徒歩1分
御砂倉
御砂倉

 鳥の餌台か、郵便ポストかなって思ってたんですが。ちゃんと御砂倉って、名前が書いてありました。でもどう見ても、野鳥の餌台か、郵便ポストですよね?そうじゃなかったら、巣箱とか。
 この中には、白砂が納められています。
 この白砂は、1883年の合祀以前、弟橘媛命が祭られていた御所ヶ崎(旗山崎)の東海岸から小舟で運んで来て整斉したものです。
 欲しい人は、必要な分だけ少量ずつ、持ち帰るようにしてください。なお、山上の砂は崖崩れ防止のため、絶対に採取しないように(^^;)

写真撮影:2008年04月02日

天然石入りおみくじ

バス停走水神社下車 徒歩1分
天然石入りおみくじ
天然石入りおみくじ

 走水神社のおみくじ。天然石が入っているにもかかわらず、150円とリーズナブルなお買い得価格です。お金儲けのためにおみくじをやっているわけじゃなくて、とても好感が持てますね。
 おみくじの結果は、微妙に残念な「末吉」でした。下から数えた方が早いですねー(TωT)
 おみくじの結果って、人に言うと運勢が逃げちゃうのかな?でも私の運勢を一部を公開しちゃいます!
 「用心して時の来るのを待て。初めは心配事多いけれど後になれば何事も望み通り叶うようになり幸福引き続いてきます。信心怠りなく心を正しくしなさい。」
 うーん、痛い、痛すぎる。性根の曲った私の心を見透かされてしまいました。今を辛抱すれば、良いことが来るよってことですね。
 「待ち人-遅けれど来る」しかし、まだ来ず。「商売-さわげば損あり」、損しっぱなしです。「学問-自己に自信を持つこと」、うーん、自信が持てない・・・。「出産-安産安心せよ」、良いですねって男が産むのかぁー?「縁談-気長く思え」、今のところ縁談はありません(TωT)
 ちなみに自分の天然石は翡翠の原石が入っていました(^^)

写真撮影:2008年04月02日

社務所

バス停走水神社下車 徒歩1分
社務所
社務所

 おみくじは社務所にあります。おみくじ以外にも、御札やお守りなども販売されています。
 かなりたくさんの種類のお守りが売られていますよ。走水神社に関する縁起の冊子も売られています。
 1986年に初めて公開された歌舞伎「ヤマトタケル」にも、日本武尊と弟橘媛命が走水から千葉県へと向かうシーンがあります。「ヤマトタケル」は長期公演となり、スーパー歌舞伎の第1作目となってり、何度も公演が行われています。
 江原啓之さんのパワースポット巡りの方が、圧倒的に有名ですね。パワースポット巡りはお願い事ばかりしていてもダメなんですよぉー。お願い事以上に、日頃の感謝の気持ちを伝えることが大切です。お願い事ばかりしていると、荒ぶる神々の怒りをかってしまうことになります。

写真撮影:2008年04月02日

御神輿

バス停走水神社下車 徒歩1分
御神輿
御神輿

 こっそり内部を盗撮しちゃいました(^^;)。走水神社の御神輿。お祭りの時に実際に使われるのかな?それとも保存しているのかな?

写真撮影:2008年04月02日

包丁塚

バス停走水神社下車 徒歩1分
包丁塚
包丁塚

 めずらしいですね、包丁塚があるなんて。塚として、昔からあったのかなー?
 走水神社の祭神は日本武尊と、弟橘媛命の二柱ですが、日本武尊は東夷を討ち平らげ都に帰る途中、伊勢国能褒野で病のために死去しました。日本書紀には、景行43年、33歳とあります。さらに日本書紀によれば、景行天皇53年8月、景行天皇は日本武尊が打ち平らげた国々の巡見の旅に出て、10月には海路で上総国淡水門(あわのみなと)に到着しました。この時、みさご鳥の声を聞いて海岸に出ると海中で白蛤(うむき)を見付けました。その白蛤を磐鹿六雁(いわかむつかり)という者が膾料理にして天皇に差し上げたところ、天皇はとても喜び、磐鹿六雁の功を賞でて膳大伴部の姓を与えました。以来、天皇の食事を取り扱うことを命じられたと伝えられています。磐鹿六雁の子孫は、初めは善臣(かしわでのおみ)、のちに高橋朝臣(たかはしのあそみ)と称し、代々天皇家の大膳職を継ぎ、天皇に差し上げる料理方の任に当たったと「新撰姓戸氏録」などに書かれています。この故事にちなんで、宮内庁大膳職の御祭神に、磐鹿六雁命が祭られています。
 「三浦古尋録」では、日本武尊らが上総へ渡航の際、走水の地で海上の風波が治まるのを待っていました。この間、起居された小庵があった場所が御所ヶ崎と言われています。この小庵の主は、何かと日本武尊たちの世話をしていましたが、ある時、蛤の膾を食膳に供え献じたところ、とても喜ばれて、小庵の主に大伴黒主(おおとものくろぬし)という名を与え、都に帰る際に連れて行かれたと伝えられています。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・御所ヶ崎
 「玉林妙」では、上総に着いた日本武尊に、安房の浮島の宮で供の者が八尋の白蛤を膾にし、また、焼いて献じたところとても喜び、その者に磐鹿六雁という名を与え、料理の祖神にしたと言われています。
 このように、浦賀水道のハマグリ料理は三浦の地に由縁深いものとなっています。

写真撮影:2008年04月02日

包丁塚

バス停走水神社下車 徒歩1分
包丁塚
包丁塚

 ここに今まで使われてきた包丁が奉納されているのかもしれません。道具を大切にしてきた日本人の魂が、この場所に納められていると言えるかもしれない。
 日本武尊と蛤料理は深い縁があるため、包丁塚が建立され、包丁儀式が奉納されています。包丁儀式は平安朝の初期、第58代光孝天皇は料理の趣味が深く、みずから包丁を持って料理をし、これが宮中行事になったと言われています。
 従三位民部卿中納言藤原山陰は魚名公流藤原氏の人で、山陰の娘が光孝天皇の女御になりました。山陰は天皇の信任が厚く、「四條流包丁書」によると、山陰が鯉を包丁したことから包丁の切型が始まったと伝えられ、四條流の祖と言われています。高橋朝臣の子孫は宮中の天皇流の料理を伝えたのに対し、山陰の料理は臣下の伝えるところとなり、その子孫に四條大納言隆親など、四條家から臣下の料理をする人が輩出したので、後年、藤原山陰卿を四條流の祖と呼んでいます。
 四條流の「包丁儀式」は包丁感謝供養祭の神事として、包丁塚の前で行われています。無形文化財とも言うべき古式豊かな儀式です。長い箸と長い包丁を使い、一切、指を触れずに魚を料理します。

写真撮影:2008年04月02日

弟橘媛命の碑

バス停走水神社下車 徒歩1分
弟橘媛命の碑
弟橘媛命の碑

 走水神社と言えば、弟橘媛命の伝説が有名です。
 碑文は以下の通りでございます。

弟橘媛命
妾は皇子の御為に よろこびて今こそ
此の浦に身を捧げなむ はようつとめ
果し大君の御心安んじさせ給え
日本武尊
弟橘媛よ 汝の願い心し吾が胸にのこ
りなん 永久に安かれとただおろがまむ

 と書いてあります。どんな意味かって?そっ、それは、みなさんでお調べください!

写真撮影:2008年04月02日

弟橘媛命舵の碑

バス停走水神社下車 徒歩1分
走水神社
弟橘媛命舵の碑

 船の舵をイメージして作られた、弟橘媛命の碑。最初に見た時は和包丁やナタなどをイメージして作られたんだと思っていました。だってすぐ近くに包丁塚があるし。和船の舵の形なのかもしれないですね。普段は水中にある物だから、どんな形状をしているのか知りませんでした。
 弟橘媛命が崇高な情熱をもって守られた浦賀水道は、近年では世界の船の航行も激しく海難を防ぐことは各方面から要望されています。国際婦人年に当たり、由緒あるこの大舵に航海の安全を託して、ゆかりの地、走水に建立し海への関心を高めたいと思います。
 遠つ世に弟橘の鎮ませるこの海原よ、やすらけくこいて。
 昭和50年11月吉日、弟橘媛命舵の碑を建てる会発起人一同。
 昭和50年は国際婦人年で、日本を初め世界各国でそれぞれの行事が行われ、横須賀市でも記念行事として弟橘媛命の顕彰と海上安全の祈願が行われました。
 この大舵は練習帆船「進徳丸」の救命艇の大舵です。弟橘媛命のレリーフは、海洋画家の飯塚羚児氏によるものです。

写真撮影:2008年04月02日

針の碑

バス停走水神社下車 徒歩1分
針の碑
針の碑

 てっきり針供養の碑かと思ってしまいました。またしても勘違い。だって包丁塚があれば、針供養の碑があってもおかしくないしー。
 針の碑は昭和58年2月8日に建立されました。2月8日の「針の日」に、針に対して心を込めて感謝を捧げ、針の碑が建立されました。
 家庭での生活文化の中で、衣食住などあらゆる面で貢献している針。また女子として必ず修め学ぶべき裁縫の技は、誠に身を保ち家を整えるために重き貴き技であります。
 碑文は以下の通りでございます。

草枕
旅の丸寝の
紐絶えば
あが手とつけろ
これの針持ち

 お父さん、旅に出たら、野宿続きで着物の紐も切れるでしょう。そんなときは、自分でつけてください。この針を持ってという意味で、万葉集巻二十・四四二〇めくらはしべのおとめです。
 遠い万葉の昔から、針が生活の中で重要な役割を果たしていたという感謝を込めて取り上げたもので、夫を防人に送り出す妻の歌です。
 針の供養は淡島信仰から始まり、江戸時代からは一般家庭の女性はもちろん、仕立て屋など、みなが裁縫を休み針箱の掃除をしました。古い針は並べて床の間に置き、餅菓子やけんちん汁などをお供えして供養しました。折れた針や錆びた針は、苦労を感謝して豆腐などの柔らかいものにさしてねぎらい、感謝供養をしました。
 関東では2月8日、関西では12月8日に行われます。

写真撮影:2008年04月02日

走水神社

バス停走水神社下車 徒歩1分
走水神社
走水神社

 桜が綺麗ですね。本殿や周囲の緑、歴史を感じさせるたたずまいです。
 走水神社は山に沿って建てられています。一番上まで上るのはかなり距離があるため、階段の下には竹製の杖が用意されています。

写真撮影:2008年04月02日

走水神社

バス停走水神社下車 徒歩1分
走水神社
走水神社

 石灯篭と満開の桜。灯篭の建てられた年代もちゃんと確認しておけば良かった・・・。

写真撮影:2008年04月02日

水雷

バス停走水神社下車 徒歩1分
水雷
水雷

 地球連邦軍モビルスーツのボールのようでもあり、マスコット的ロボットのハロのようでもある。その正体は、なんとロシア軍の水雷だぁー!
 明治43年6月、弟橘媛命辞詠記念碑の序幕に当たり、建立を発起した人によって走水神社に奉納されたもののひとつ。
 伯爵東郷平八郎ほか6名は奇書1軸、男爵高崎正風による懐紙1葉、男爵上村彦之丞による機械水雷。上村彦之丞、ナイスです!
 海軍中将従三位勲一等功一級男爵上村彦之丞閣下は、明治38年3月以来、第11代横須賀鎮守府司令長官の要職にありました。日露戦争開戦時、第二艦隊司令長官として装甲巡洋艦「出雲」に乗船し、蔚山沖海戦を指揮し、軍歌に歌われる日露戦争の立役者の一人となりました。
三浦半島観光地図:横須賀市楠ヶ浦・横須賀鎮守府
 奉納された機械水雷は、ロシア国製で明治37年〜明治38年の戦利品です。明治43年以来、90年以上も風雨に耐えています。機械水雷の保存状態は良好ですが、古い物で名称形式は不明で、現代でいう係維式触発機雷と呼ばれるものです。機雷缶体上部には4本の触角があり、醸成電池(衝撃によって薬剤が混合して起こる化学反応により起電する電池)によって起爆する形式です。機雷缶体の頂部には水圧安全スイッチと思われる装置もあります。機雷缶体下部中央には炸薬装填口があり、その外周には一部が破損していますが三脚からなる係維環を装備しています。当時の日本やロシアで使用していた機械水雷では、最新式の画期的な形式のものです。
 日本では、触角に内蔵するガラス管や電液の製造上の問題点と、撃発式を好む気運の強さにより、醸成電池式を採用したのは大正14年になってからのことです。
三浦半島観光地図:横須賀市楠ヶ浦・横須賀軍港

写真撮影:2008年04月02日

稲荷大明神

バス停走水神社下車 徒歩1分
稲荷大明神
稲荷大明神

 どこの神社に行っても、境内の片隅にある稲荷神社。走水神社にもありました。

写真撮影:2008年04月02日

別宮

バス停走水神社下車 徒歩1分
別宮
別宮

 箱じゃないですよ。本宮とは別の、別宮です。お参りを忘れないでね。
 日本武尊の従者、弟橘媛命に殉じた次女たちを祭っています。

写真撮影:2008年04月02日

狛犬

バス停走水神社下車 徒歩1分
狛犬
狛犬

 別宮に設置された狛犬です。この狛犬は、子狛犬を抱えているタイプの狛犬ですね。
 デザインも良く、バランスも整っていますね。もう一方の狛犬は、残念ながら朽ち果てていました。残っているこの狛犬には、頑張って欲しいですね!風雪に耐えてくれ!!

写真撮影:2008年04月02日

河童大明神

バス停走水神社下車 徒歩1分
河童大明神
河童大明神

 水神の河童大明神。走水は水は豊富な場所なので、河童伝説もあるのかもしれません。
 河童(かっぱ、河わらは、河わっぱ)は想像上の動物で、子供の形をし、頭上の皿には水が入っています。
 子供や動物を水中に引き込み、その血を吸うと言われています。悪さをする半面、泳ぎの達人であり、水の化身、水神として尊ぶ場所もあります。漁業の手引きをして大漁をもたらしたり、遭難した時に人命救助をすとも伝えられています。
 走水では水との縁が深く、昔から水神として祭られています。
三浦半島観光地図:三浦市南下浦町金田・すずの川

写真撮影:2008年04月02日

やぐら

バス停走水神社下車 徒歩1分
やぐら
やぐら

 河童大明神の近くに掘られた、四角形のやぐら。現在は鬼瓦が置かれていますが、昔は違う物が置かれていたと思います。やぐらの最奥中央部には、船形石塔の形に彫られているため、何かが祭られていたものと思われます。
 河童大明神周辺では、地層を観察することもできます。現在、地層について勉強中なんですが、何度参考書を読んでも、さっぱりわかりません(^^;)
 私には誰が見てもわかる程度の縞模様しか、見分けることができません。詳しい人が見ると、地質とか堆積物とかわかるのかも。

写真撮影:2008年04月02日

やぐら

バス停走水神社下車 徒歩1分
やぐら
やぐら

 こちらのやぐらには、石仏と、ほぼ同じ大きさと形の石が置かれていました。

写真撮影:2008年04月02日

走水神社

バス停走水神社下車 徒歩1分
走水神社
走水神社

 走水神社の拝殿は、なかなか風格があっていいですね。
 明治時代になって作られた社殿らしいですが、外見からは江戸時代の頃からこの地に建っているような雰囲気があります。
 「イワシの頭も信心から」なんていうことわざがあるように、参拝も賽銭の金額で決まるわけじゃない、心で決まるんだーと決めつけて、お賽銭はごく微量で申し訳ない!お金持ちになったら金貨を持って行きますので、お賽銭は出世払いで・・・

写真撮影:2008年04月02日

走水神社

バス停走水神社下車 徒歩1分
走水神社
走水神社

 横から見ると、こんな感じになっています。

写真撮影:2008年04月02日

弟橘媛命の記念碑

バス停走水神社下車 徒歩1分
弟橘媛命の記念碑
弟橘媛命の記念碑

 走水神社の境内では、そこかしこに弟橘媛命の存在を感じます。
 この石碑は伊豆石で、高さは4.2mあります。走水港に陸揚げされ、ここまで運んで建てられました。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・走水港
 碑文の表面は以下のように書かれています。弟橘媛命の歌なんですが、どこで区切られるのかわからなくてさー。短歌の基本の五・七・五・七・七じゃないんだもん。

さねさし さがむのおぬに もゆるひの
ほなかにたちて とひしきみはも
勲一等竹田宮昌子内親王御染筆

 石碑の裏面に詳しい情報が記されていました。

嗚呼此は 弟橘媛命いまはの御歌なり
命夫君 日本武尊の東征し給ふ伴われ
駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う
時無く暴風に遭ひ 御身を犠牲として尊の御命を全からしめ奉りし
其のいまはの御歌なり
御歌に溢るる心情はすべて 夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず
其の貞烈忠誠まことに女子の亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし
平八郎等七人相議り 同感者を得 記念を不朽ならしめむと
御歌の御書を竹田宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り 彫りてこの石を建つ
明治四十三年十月 発起人
海軍大将正三位大勲位功一級 伯爵 東郷平八郎
海軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 伊藤祐亨
海軍大将従二位勲一等功二級 子爵 井上良馨
陸軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 乃木希典
枢密顧問官兼御歌所長従二位勲一等 男爵 高崎正風
海軍中将従三位勲一等功一級 男爵 上村彦之丞
陸軍中将従四位勲二等功二級 藤井茂太
御歌書主事従五位勲六等 阪正臣 謹書
旭海鶴永富萬治敬刻
写真撮影:2008年04月02日

諏訪神社

バス停走水神社下車 徒歩1分
諏訪神社
諏訪神社

 かなり古いですねー、こういった形の石製祠は三浦半島では珍しいですね。
 もともとは御所ヶ崎にありましたが、明治18年に走水神社に合祀されました。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・御所ヶ崎

写真撮影:2008年04月02日

神明社

バス停走水神社下車 徒歩1分
神明社
神明社

 同じ形をした石製祠が3基、並んでいます。たぶん作られた年代も同じだと思います。この写真は、神明社です。
 もともとは伊勢山崎に祭られていた神社ですが、伊勢山崎が軍用地となったため走水神社に合祀しました。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・防衛大学走水海上訓練場

写真撮影:2008年04月02日

須賀神社

バス停走水神社下車 徒歩1分
須賀神社
須賀神社

 こちらは須賀神社。
 もともと走水山にありましたが、明治18年に走水神社に合祀されました。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・走水山

写真撮影:2008年04月02日

走水神社

バス停走水神社下車 徒歩1分
走水神社
走水神社

 走水神社の頂上に、諏訪神社、神明社、須賀神社が並んでいます。頑張って頂上まで登らないと、見ることができませんよー。
 地元では「お三の宮」と呼ばれています。
 走水神社は江原啓之さんのパワースポット紹介で有名になりましたね。三浦半島でも由緒ある神社のひとつです。最寄駅から遠く、アクセス方法はバスか車しかないので、ちょっと行きづらい場所にあります。遠くからパワースポット巡りに来たら、帰りは横須賀美術館に行ってみるのもいいかもしれません。
三浦半島観光地図:横須賀市鴨居・横須賀美術館

写真撮影:2008年04月02日
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