1936年(昭和11年)、蒸気船早丸(はやまる)の遺族が建立した碑があります。小さな石碑なので、気が付かないかもしれません。
1869年(明治2年)年の夜半、嵐に乗じて密かに横浜港を出港した船がありました。目的地は上海。乗組員は外国人を含め約80人。船が久里浜沖の海鹿島(あしかじま、昔はアシカが住んでいました)にさしかかったとき、暗礁に乗り上げ沈没してしまいました。
船倉には、当時の国際的通貨であったメキシコ銀が6万ドル、伊予別子銅山産のなまこ銅140万匁、青銅器40万匁、その他毛織物、生糸、小銃弾薬、仙台藩の53万両、越後藩の黄金の灯籠、幕府御用金400万両などが隠されていたといいます。
その後、「浜には生糸が流れ着いた」とか、「海鹿島の南側は、確かに船のようなものが沈んでいて、今でも網がよく引っかかる」という漁師たちの伝聞を手がかりに、多くの人が埋蔵金伝説の夢を追いました。
しかし、未だに決定的な遺物は発見されていません。
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