地元では「ごんげんさま」と呼ばれ、親しまれています。長井地区の総鎮守となっています。
建久年間(1190年〜1199年)、源義経の家臣、鈴木三郎家重の長男・鈴木家長が荒井に移住してきた際、郷里の熊野権現を勧請したのが始まりと伝えられています。
また、伝説ではありますが・・・
凶作が続いたある年の7月15日、荒井の三郎崎の磯にご神体が漂着して、漁民に救いを求めました。それを助けた漁師は、凶作で自分も食べる物が足りないような状態でしたが、なんとかして麦のエマシ(大麦を煮てさらしたもの)を探し求め、これに麦焦がしをまぶしたものを食べさせ、とりあえずの空腹をしのいでもらいました。
その縁から、のちに伊勢の熊野三郎という人物が訪れ、熊野権現を勧請したと伝えられています。
漂着した神様にエマシ麦を献じたのは、荒井で屋号・ゴエム家の先祖だったと言われ、7月15日の祭礼で湯立て神楽の湯を沸かす役は、代々ゴエム家が勤めてきました。
また、故事にならって、15日には神社にエマシ麦を備える風習がありました。
長井は昔から一本釣り漁師が多い地区で、漁船がカツオやマグロなどの大型魚を持ち帰るときは、熊野神社の前まで船を回し、「ツォ権現さま」と唱えて魚のホシ(心臓)をひとつ、海中に投げ入れて権現様に献じました。
「オブリ」といって、今でも行っている漁師さんもいるようです。
正月の初出の際には、沖へ向かう前に熊野神社の前で船を3回まわして、海中にお神酒を献じてから沖へと向かいます。
漁師さんにとっては、厚い信仰のある神社です。
かつて、数年に一度の大例祭が行われたとき、山車が出たり、船祭りと呼ばれる神輿の海上渡御が行われました。
各町内が協力して行い、権現様の神輿と神主が乗るお召し船は、漆山、番場、新宿、仮屋ヶ崎、屋形、荒井の地区からクジ引きで決められました。お召し船を務める家が決まると、船主の家ではおめでたいこととして赤飯を炊いて祝いました。舟唄衆が乗る御座船は、荒井からと決まっていました。
三浦半島観光地図:横須賀市長井:漆山公会堂
三浦半島観光地図:横須賀市長井:新宿町内会
海上渡御は、熊野の神が漂着したと伝えられる荒井の三郎崎から出発し、榊神輿(さかきみこし)の船を先頭にして、舟唄衆が乗り込んでいる御座船、神輿船、山車の船と続き、一列になって亀城暗礁を大きく回って大木根の海岸まで渡りました。
海上渡御になくてはならない舟唄は、荒井の若い衆が歌うことになっていて、16歳になると半強制的に習わされました。大祭の年には、正月頃から仕事が終わると猛練習をしていました。この舟唄は三社丸舟唄(さんじゃまるふなうた)とも呼ばれ、熊野三社権現に由来しています。
社殿正面の石段の脇に刻銘があり、石坂は四日市の干物問屋、江戸日本橋の魚問屋仲間が寄進していることがわかります。
石造の鳥居は、江戸へ運ぶ途中の石船が、亀城暗礁(かめぎあんしょう)で座礁し、その捨て石が寄進されたものだと伝えられています。
「列婦 浦島千代の碑」と彫られた石塔があります。
浦島千代は北原白秋、前田夕暮らが藤家という旅館に宿泊したこともあり、その宿屋の女将が浦島千代です。男らしく強気な侠気の親分肌だった女性です。
太平洋戦争中、海軍の将兵たちの面倒をよく見ていたことから、彼女の死後、戦後になってから世話になった人々によって建てられたものです。
人物事典:北原白秋
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