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ヴェルニー公園の石碑


ヴェルニー公園の石碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
地図

 ヴェルニー公園内のさくらの広場に設置された石碑群です。

 戦後に臨海公園として整備された公園を、2001年(平成13年)にリニューアルしてヴェルニー公園となりました。
 フランス式庭園様式を取り入れた明るい公園になりました。自衛隊や米海軍の軍艦を目的に、多くの人が訪れる公園に変わりました。


海軍の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
海軍の碑
海軍の碑

 滑り台や、スケボー用のスロープではありません。海軍の碑です。
 ヴェルニー公園内にある石碑としては、飛び抜けてモダンなデザインとなっています。
 ベンチが用意されていて休憩もできるし、レリーフには海軍施設の書かれた地図もあるし、とても良くできているなーと感心します。
 石材もピッカピカに磨かれていて綺麗です。
三浦半島の歴史:1904年:日露戦争日露戦争

写真撮影:2006年07月25日

海軍の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
海軍の碑
海軍の碑

 1995年11月17日、海軍の碑建立委員会
 設計、株式会社松本陽一設計事務所
 施工、馬淵建設株式会社

写真撮影:2016年06月21日

海軍の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
海軍の碑
海軍の碑

 建立趣意
 浦賀に黒船が現れ、鎖国の夢を破られた幕府は、ここ横須賀の地に製鉄所を建設し、近代海軍の創設を企画した。
 その後、明治維新により明治政府が樹立され、政府は、西欧諸国に比し一世紀以上の遅れを取り戻すべく、我が国の近代化に着手した。
 特に海軍の整備が重要視され、日清及び日露両戦役を経て、わが国の海軍は次第に整備充実され、世界三大海軍国の一つとして、その地位を占めるに至った。
 こうした近代海軍の創設及び成長という歴史の流れの中において、横須賀はその最枢要基地として、かつての一寒村からわが国屈指の軍港都市となり、発展を遂げることになった。
 しかしながら、その海軍も昭和20年の太平洋戦争終結と共に80年に亘る歴史を閉じることになった。
 海軍終息から50年という節目に当たる本年。明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史、並びに太平洋戦争において亡くなられた多くの人々を偲びつつ、またわが国の永遠の平和を希求するため、この記念碑を建立する。
 なお、本記念碑は全国の海軍関係者及び有志から寄せられた浄財によるものである。
 平成7年11月17日
 海軍の碑建立委員会

写真撮影:2016年06月21日

海軍の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
海軍の碑
海軍の碑

 横須賀市内の地図がレリーフとなっています。
 地図と言っても現代の地図ではなく、太平洋戦争当時の海軍施設が記されています。
 こんなにも海軍施設があったのかと、驚いてしまうほど。

写真撮影:2016年06月21日

軍艦山城の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
軍艦山城の碑
軍艦山城の碑

 軍艦山城は、横須賀鎮守府菅下最初の超弩級戦艦として、1915年11日3日に進水し、1917年3月31日就役しました。当時は世界最大の戦艦となりました。しかし主砲を搭載するための重量を軽減するために、側面の装甲を削り、防御面では不安の残る戦艦でした。就役後もトラブルが相次ぎ、たびたび改修を行いました。
 太平洋戦争が勃発するや各地に転戦し、戦局の変化によって悲惨な運命となった昭和19年10月捷一号作戦において西村艦隊の旗艦として比島(フィリピン)スリガオ海峡に突入し、数倍に及ぶアメリカ艦隊と激戦、集中砲火の的となり、魚雷艇、駆逐艦の魚雷攻撃を受け弾薬庫に引火し大爆発しました。乗員1600余名と共に、スリガオ海峡の海底に沈みました。生存者は10名たらずでした。
 亡くなられた方々のご冥福を祈り、追悼慰霊祭を行い、世界平和を願いを込めてこの碑を建立しました。

写真撮影:2006年07月25日

軍艦山城の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
軍艦山城の碑
軍艦山城の碑

 艦これをプレイしている人は、かなり詳しいと思います。扶桑型戦艦の2番艦です。
 1942年(昭和17年)5月、珊瑚海海戦で空母祥鳳を失って、6月のミッドウェー海戦では空母4隻を失っているので、空母不足を補うために航空母艦か航空戦艦への改造が計画されていました。
 実際に実現することはありませんでしたが、艦これ内では航空戦艦として高い能力を発揮しています。
 

写真撮影:2016年06月21日

軍艦山城の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
軍艦山城の碑
軍艦山城の碑

 軍艦山城の艦歴
 起工、大正2年11月20日、横須賀海軍工廠
 進水、大正4年11月3日、横須賀海軍工廠
 竣工、大正6年3月21日、横須賀海軍工廠
 数次の改装工事に依り次の通りの装備となる
 基準排水量、34700t
 全長、212.75m
 最大幅、33.20m
 主機関、75000馬力
 速力、24.5ノット
 主砲、36cm12門
 副砲、15cm14門
 高角砲、12.7cm8門
 機銃、25mm3連装2基、2連装17基、25mm単装10基
 ※機銃増設装備のため副砲2門撤去、昭和19年7月
 水上偵察機、3機
 カタパルト、1機
 測巨儀、10m測巨儀1基
 軍艦山城の戦歴
 軍艦山城は横須賀鎮守府管下最初の超弩級軍艦として平時の連合艦隊において優れた成績を挙げ太平洋戦争勃発するや各地に転戦し、戦局の変化により悲惨な運命となった昭和19年10月捷第一号作戦において西村艦隊の旗艦として比島スリカオ海峡に突入し数倍に及ぶ米艦隊と激戦、集中砲火の的となり又魚雷艇及び駆逐艦の魚雷攻撃を受け、大破し沈没寸前まで前部放蕩からは間断のない砲撃が続けられたので有りましたが、悲愴にも力つきた。
 山城は乗員1600余名と共にスリカオ海峡の海底深く沈んでいった。時に昭和19年10月15日午前4時19分。
 ここに亡くなられた方々のご冥福をお祈り致し追悼慰霊祭を挙行し世界平和の願いをこめ、再び戦争の惨禍の起こることのないようにすることを決意し此の碑を建立する。
 謹書
 平成7年10月25日
 軍艦山城の碑建立委員会

写真撮影:2016年06月21日

国威顕彰の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
国威顕彰の碑
国威顕彰の碑

 軍艦の艦橋を模した国威顕彰の石碑。
 せっかく作られた石碑であるにもかかわらず、銘文が書かれていたであろう部分が剥ぎ取られてしまっています。
 銘文の書かれてあったであろうプレート部分以外にも剥ぎ取られた跡があることから、誰かが意図的に剥ぎ取ったものではないかと思われます。横須賀市の方針によって剥ぎ取られたのか、一般の人によって剥ぎ取られたのかはわかりませんが。軍国主義をイメージさせるという理由から剥ぎ取られたのではないかと思います。

写真撮影:2006年07月25日

国威顕彰の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
国威顕彰の碑
国威顕彰の碑

 軍艦の艦橋の形に造られている石碑ですが、私は高雄型一等巡洋艦の高雄の艦橋だと考えています。
 高雄は横須賀海軍工廠で造られた艦艇です。
 ただ、いくら資料を調べても、国威顕彰の碑についての記述は見付かりません。歴史上から消し去られたかのように不自然に見つからないので、隠す必要があったのかもしれません。

写真撮影:2016年06月21日

軍艦長門の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
軍艦長門の碑
軍艦長門の碑

 軍艦長門は日本海軍の戦艦で、竣工当時は世界最大の41cm主砲と高速な機動力を持ち、太平洋戦争開戦時は連合艦隊旗艦として連合艦隊司令長官山本五十六大将が乗艦していました。
 戦艦陸奥と同様に、日本海軍を代表する戦艦として、国民から親しまれていました。
 ヴェルニー公園に石碑があるので横須賀海軍工廠で建造された船かなって感じがしますが、呉海軍工廠で建造されています。
 竣工後は横須賀海軍工廠所属となり、空襲を受けて中破状態で終戦を迎えています。

写真撮影:2006年07月25日

軍艦長門の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
軍艦長門の碑
軍艦長門の碑

 軍艦長門碑
 ありし日の
 連合艦隊旗艦長門の姿を
 ここに留めて
 昭和激動の時代を
 偲ぶよすがとす
 政一書

写真撮影:2016年06月21日

軍艦沖島の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
軍艦沖島の碑
軍艦沖島の碑

 軍艦沖島と書かれていますが、日本海海戦で降伏したロシア艦のゲネラール・アドミラール・アプラークシンのことでしょうか?機雷敷設艦の沖島のことでしょうか?振り仮名では「おきのしま」と書かれてありました。刻まれた文章の感じからすると、機雷敷設艦の沖島のことでしょう。
 沖島(おきのしま)は、日本海軍の敷設艦で、日本海軍初の大型敷設艦でした。
 ロンドン条約によって阿蘇、常磐の代艦として敷設艦の建造が認められ、2隻予算請求されたが1隻のみ成立、播磨造船所で建造されました。6号機雷を600個も搭載でき、カタパルト1基が設置され水上偵察機1機も搭載できました。
 日中戦争には陸軍部隊や物資の輸送で活躍。太平洋戦争では緒戦の各地攻略作戦に参加。
 1942年(昭和17年)5月12日、米潜水艦の魚雷攻撃によりソロモン諸島で撃沈されました。

写真撮影:2006年07月25日

軍艦沖島の碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
軍艦沖島の碑
軍艦沖島の碑

 軍艦沖島の碑

 原始
 海は生命の故郷であった

 その海に果て
 その海深く眠る

 戦友たちの御魂やすかれと
 いのちながらえしもの
 あい集い

 再び
 いくさあらすなと
 ねがうものなり

浮雲一片流北辰 何人不起望郷情
有時霊魂亦還家 夜半南星漂蒼海

写真撮影:2016年06月21日

正岡子規の句碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
正岡子規の句碑
正岡子規の句碑

 明治21年(1888年)8月、正岡子規は夏期休暇を利用して、友人と汽船で浦賀に着き、横須賀・鎌倉で遊びました。
 碑の句は、横須賀港内に連なる帆柱の印象を詠んだもので、句集『寒山落木』に収録されています。
 正岡子規は、慶応3年(1867年)9月17日伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)に生まれ、本名は常規といいました。
 松山中学校時代は政治家志望でしたが、上京後は文学に転じ、文科大学国文科(現在の東京大学)に進学しました。
 写実(写生)を主張して、空想を排する俳句の革新を行いました。その考えを新聞『日本』紙上に『獺祭書屋俳話』、『』俳諧大要として記しました。また、句作は生涯に2万句を数え、明治25年〜明治31年までは毎年1000句以上を作りました。明治30年には『ホトトギス』が創刊され、子規派の雑誌として注目されました。
 一方、明治30年には『歌よみに与ふる書』を『日本』に掲載し、短歌の革新にも着手。俳句で主張した写生を短歌にも及ぼしたものでした。
 正岡子規は明治35年(1902年)9月19日、35歳で亡くなりましたが、彼の主張は、俳句では高浜虚子、河東碧梧桐らが継承し、短歌では斉藤茂吉、島木赤彦らのアララギ派に受け継がれました。写生文は夏目漱石、伊藤左千夫ら後継の文学者に影響を与えました。
三浦半島の歴史:人物事典・正岡子規
家庭の医学:肺結核

写真撮影:2006年07月25日

正岡子規の句碑

京急汐入駅下車 徒歩7分
正岡子規の句碑
正岡子規の句碑

 「横須賀や只帆檣の冬木立」と刻まれています。
 句集「寒山落木」に収録されていて、帆檣(はんしょう)を詠んだものです。
 帆檣は横須賀港内に停泊する船舶の帆柱のことです。

写真撮影:2016年06月21日
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