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 咸臨丸人物事典

咸臨丸と関連の深い人物を紹介します
 咸臨丸といえば、なんといっても江戸っ子勝海舟ですね。彼は、かなり口は悪かったようです。「てやんで〜、このすっとこどっこい、さきおととい来やがれ!」と言っていたかどうかはわかりませんが(^^ゞ
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岡田 井蔵(おかだ せいぞう) 1837年〜1904年
 間違えやすいのですが、土佐藩士の岡田以蔵とは別人物です。
 1837年(天保8)年1月20日、幕臣岡田定十郎の4男として生まれました。早くに父母を失い、兄の益太郎の庇護を受け、1843(天保14)年に兄が浦賀奉行組与力となったとき、浦賀に移り住み、16才で幕府学問所の昌平黌(しょうへいこう)に入学し漢学を修めています。
 1856(安政3)年、幕府に選ばれ第2回海軍伝習生として長崎に赴き、機関学について学び、1859(安政6)年正月、朝陽丸で江戸に帰り、軍艦操練所の教授方手伝出役となりました。
 1860(安政7)年、遣米使節の随行艦咸臨丸に、機関方の青年士官として乗艦。滞在中、教会を訪れ、オルガンの妙なる音に耳を傾けたと言われています。往路は荒天でしたが、復路は平穏で同年5月5日に浦賀湊に碇を降ろしました。幕府から、銀20枚、時服2、さらに銀20枚が贈られました。
 帰国後、再び軍艦操練所に出仕し、文久年間には朝陽丸の機関長として伊豆・小笠原諸島の調査・開拓に従事。将軍・家茂の海路上洛の折りには、その警護にも就きました。1868(明治元)年1月、軍艦蒸気役一等を仰せつけられ、このころ、深田村に居住していました。
 維新後は、横須賀製鉄所に出仕し、造船小師となり、1872(明治5)年には主船小師で製図掛主任となり、盤城・海門などの建造に尽力し、1876(明治9)年には主船中師となりました。のち、海軍三等師と改称され、やがて海軍一等師に昇進し、1884(明治17)年には製図掛機会部主任となりました。一貫して製図部門の責任者の地位にありましたが、1889(明治22)年に退職しました。
 1904(明治37)年7月28日、横浜市青木町で死去。68才。東浦賀の顕正寺にお墓があります。

勝 安芳(海舟)(かつ やすよし(かいしゅう)) 1823年〜1899年
勝海舟
 義邦・安芳・海舟・麟太郎と、いろいろな呼ばれ方をしますね。ヅーフハルマの本を2冊写して1冊売ったり、貧乏で家の羽目板や柱を削って飯を炊いたり、努力の人です。でも、ちと口が悪い。
 1823(文政6)年1月30日、江戸本所の貧乏旗本の家に生まれました。父の名は子吉、号を夢酔といいました。子供のころは非常に貧乏で、ろくに布団の上でも寝られず、剣術の稽古着のまま寝たことが多かったそうです。
 7才のころ、数年だけ、12代将軍家慶の5男・初之丞のお相手をしたことがあります。9才のころ、路上で犬に噛まれて死にかけます。13才のころ島田虎之助に師事して剣術を学びました。
 16才で家督を継ぎ、1845(弘化2)年から筑前黒田藩の永井青崖について、蘭学や西洋兵学を学びました。1849(嘉永2)年には、私塾を開いて、蘭学と西洋兵学を教授するようになりました。1855(安政2)年、蕃書(ばんしょ)翻訳御用出役を命じられ、同じ年に、幕府の海軍伝習生監督として長崎に派遣され、オランダ人から航海術などを学びます。
 1860(万延元)年に咸臨丸の艦長として、アメリカを訪問しますが、航海中船酔いで一歩も艦長室から出てこなかったと言われています。
 帰国後、1864(元治元)年、軍艦奉行となり、神戸に海軍操練所を開設し、坂本龍馬などの多くの人材養成にあたりました。また、幕末には、西郷隆盛と会見し江戸城を無血の内に開城させるなど(実際には山岡鉄舟の根回しにより成功)、数々の功績を残しています。
 明治維新後も、1872(明治5)年に海軍大輔に命じられ、翌年、参議に任じられ海軍卿を兼ねます。1887(明治20)年、華族に列せられ、伯爵を授けられ、従三位に叙せられます。
 1899(明治32)年1月21日、脳溢血でなくなりました。77才。東京都大田区の洗足公園にお墓があります。
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佐々倉 桐太郎(ささくら とうたろう) 1830年〜1875年
 1830(天保元)年、江戸の結城家に生まれ、のち浦賀奉行所与力である佐々倉家の養子となりました。1853(嘉永6)年のペリー来航時には応接掛として奔走、1855(安政2)年、長崎の海軍伝習生となり、オランダ人から士官心得について学びました。1857(安政4)年、観光丸で江戸に戻り、築地の軍艦教授所で教授方となりました。
 1860(安政7)年、咸臨丸渡米の際には、運用方兼鉄砲方として参加しました。航程図を見ると、荒天の往路でも大圏航路を通るなど、同乗の測量船長ブルックらの助力を得ながらも、運用方として操舵の腕も並々ならぬものだったそうです。
 サンフランシスコ入港の際に、桐太郎は「入港の時国際礼法に従って、21発の礼砲を撃つべきデアール」と主張しましたが、勝麟太郎は「てやんで〜、べらぼうめぃ、お前たちの腕前では心もとないから無理だ!撃てたら俺の首をやろう。すっとこどっこい。」などと冷笑するため、「鉄砲方として艦長の言葉は聞き捨てならん、プンプン!」と実際に言ったかどうかはわかりませんが、委細構わず、砂時計で時を計り、次から次へと21発の祝砲を見事に撃ち納めました。帰国後、幕府から銀50枚、時服2、さらに銀30枚が贈られました。
 軍艦操練所教授方頭取をはじめ、御軍艦頭取、改称された海軍所頭取などの要職につきます。1867(慶応3)年には400俵5人扶持をもって江戸出仕を命じられ、浜御殿内で幕府海軍の指導にあたっていましたが、幕府の命脈はつき、病の為もあり、一家をあげて三崎小網代に移っています。
 維新後、静岡藩権小参事となり、廃藩置県のあった1871(明治4)年、海軍兵学助として海軍兵学寮出仕を命じられました。やがて、兵学寮は海軍省の所管となり、兵学権頭に任じられ、1873(明治6)年11月、兵学寮に明治天皇が行幸され、海軍卿勝安芳が桐太郎の名前を紹介し勅語を賜りました。
 1875(明治8)年、兵学寮の責任者となりますが病状は日々に悪化し、12月17日、咸臨丸以来の友人の海軍大丞(だいじょう)赤松則良が見舞いに来た際、挨拶を交わし、そのまま永眠したと言います。46才。東京本郷通にある浄心寺にお墓があります。

中浜(ジョン)万次郎(なかはま まんじろう) 1827年〜1898年
ジョン万次郎
 まさに、人間万事塞翁が馬といった感じの人。『ジョンまん』などと、略されて呼ばれたりもしちゃいます。
 1827(文政10)年に土佐藩幡多郡中の浜村(現・高知県土佐清水市中浜)で生まれました。
 1841(天保12)年正月5日、仲間4人とスズキ釣りに出漁中に遭難、黒潮に流されて8日目に鳥島に漂着しました。5人は運良く、ウィリアム・ホイットフィールド船長の捕鯨船ジョン・ホランド号に助けられました。万次郎は才能を認められ、アメリカで教育を受け、ジョンという名前をもらいました。そして、マサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェヤーヘブンの町で教育を受けました。
 1851(嘉永4)年に琉球(現・沖縄)に戻りましたが、当時の日本は鎖国中だったため、長崎に送られ、長崎奉行の取り調べや、海外事情を聞かれた後、翌年になって故郷に帰ることができました。まだ26才。
 帰国後は、故郷で英語・航海術・測量・数学などを教えていましたが、すぐに幕府に召されて江戸に向かいます。幕府の外交に大きな貢献をしましたが、漁師の出身であるため高い評価は得られませんでした。ペリー来航時にも、裏方に徹しました。
 1898年11月12日、72才でなくなりました。東京都豊島区の雑司が谷霊園にお墓があります。

濱口 英幹(はまぐち ひでもと) 1830年〜1894年
 通称は興右衛門(おきえもん)
 1855(安政2)年、浦賀奉行所同心(奉行所の下級武士、約50人の同心がいました)だった彼は、長崎海軍伝習所に入所し、伝習生として修行を積みました。長崎海軍伝習所は、幕府が軍艦に乗り込む海軍士官や下士官を養成するため、オランダ海軍士官らを教官として開いた学校です。勉強を終え、1857(安政4)年、江戸の築地に開設された軍艦教授書の教授方に登用されました。
 1860(安政7)年にアメリカを目指した咸臨丸には、31才の時乗組員の1人として乗船しました。同乗していたアメリカ人ブルック大尉によると英幹のことを「格好のよい頭と良い体つき。面長の顔、ちとインディアンのよう。形の良い鼻と広い額、あごとほほに髭が生えている。弓なりの眉、重みのある人物。極めて冷静で落ち着きがある。話し相手にはとても良い男で、常に感謝して教えを受けている。」と評価しています。何だか、意味深ですね(^^;)。文章の書き方が悪いのかな?
 帰国後は、再び軍艦操練所の教授方となり、また幕府の軍艦の頭取(艦長)にもなっています。1871(明治4)年には、横須賀製鉄所に招かれ、造船技術者として、軍艦建造の仕事に携わりました。やがて、製鉄所が横須賀造船所に改称されると、造船科主幹となりました。
 1889(明治22)年、健康を損ねた英幹は造船所を辞め、中里町(現・上町)に引っ越し余生を送りました。浦賀奉行所の与力や同心には俳諧をたしなむ者が多く、彼も花を愛で俳句を作る日々であったといわれています。
 「月や雪 はなを友なる ひとり旅」
 1894(明治27)年、65才でなくなりました。

山本 金次郎(やまもと きんじろう) 1826年〜1864年
 浦賀奉行所出身で咸臨丸の乗組士官を務めました。
 1826(文政9)年に生まれ、1854(嘉永7)年には浦賀奉行所同心として定廻りを仰せつけられ、1855(安政2)年、幕府が長崎に海軍伝習所を開設し、与力の中島三郎助、佐々倉桐太郎らとともに、第一回海軍伝習生として派遣されます。
 長崎では、オランダ人教官について蒸気機関の研究をし、優秀な成績を収めています。1857(安政4)年3月、観光丸(オランダの寄贈、もとの名をスンビン)で江戸に帰り、蒸気方を担当しました。 この後、江戸築地に軍艦教授所が設けられ教授方に任命され、観光丸の修理の際には、長崎への回航の任にも当たっています。
 咸臨丸の派遣が決定されると、機関長次席格として参加することになりました。1860(安政7)年正月19日に浦賀を出港し、37日間の往路を乗り切り、我が国の軍艦として初の太平洋横断に成功し、サンフランシスコ湾に最初の日章旗を掲げて大歓迎を受けました。同年5月5日には浦賀に戻ります。12月には、幕府が乗組員に恩賞を与え、金次郎にも銀50枚、時服2、さらに銀30枚が贈られました。
 帰国後も軍艦操練所教授方を務め、幕府海軍の人材育成にあたっています。数学が得意だったようです。
 しかし、病のため1864(元治元)年7月に39才の若さで死去しました。東京練馬の氷川台にある荘厳寺にお墓があります。山本コータローは、山本金次郎の曾孫。

咸臨丸(かんりんまる) 1857年〜1871年
咸臨丸
 幕府がオランダに注文して、1857(安政4)年に建造されました。96人乗り、長さ50m、幅7.3m、100馬力の補助エンジン、3本マスト。復元した物が長崎のハウステンボスにあります。
 名前は中国の『易経(えききょう、易学のもとになった教えのこと)』の中にある、『咸臨貞吉』という言葉からとって名付けました。これには、「君臣はお互いに親しみ厚く、情けあまねし」という意味です。
 日本人による史上初の太平洋横断を成し遂げた咸臨丸は、床屋から槍持まで総勢96人もの人々が乗り込んでいました。
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