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朝比奈切通


石碑

バス停十二所神社下車 徒歩13分
地図
石碑
石碑

 朝比奈切通の説明が書かれてある石碑です。倒れちゃうんじゃないのかなって思うような不安定さですが、倒れることなく建っています。もし倒れたら、割れちゃうだろうからなー。
 1941年(昭和16年)、鎌倉青年会(鎌倉青年団)によって建てられた石碑です。鎌倉の各地の史跡建てられているので、史跡巡りをしているとたびたび見かけると思います。大正時代中期〜昭和時代初期に建てられており、現代ではややわかりづらい説明文が書かれてあります。鎌倉の史跡を大切にしたいという気持ちが込められた石碑です。
 朝比奈切通は、鎌倉七切通しの中でも、かつての状態が残されている切通です。鎌倉幕府が開かれた頃の鎌倉はどんなだったのか、それが一番良くわかる場所なんじゃないかなーと思います。オススメの場所です。アスファルトで舗装されておらず、電柱が1本もないっていうのがイイですね!
 鎌倉という都市を建設するにあたって、大規模な土木工事が行われてきました。土地が狭いため、山や丘陵を削って土地を確保し、低地には削った土や岩で埋め立てました。さらに切通で、道と防衛施設を造りました。土木工事の従事者は、寺社から協力を得ていました。

写真撮影:2009年02月17日

朝比奈切通

バス停十二所神社下車 徒歩13分
朝比奈切通
朝比奈切通

 朝比奈切通は鎌倉と六浦を結ぶために作られた道です。鎌倉からアプローチする方法と、横浜市金沢区朝比奈からアプローチする方法の、2通りあります。私はどちらかというと、鎌倉からアプローチする方がわかりやすいかなって気がします。
 鎌倉からはバス停「十二所神社」から、横浜からはバス停「朝比奈」からが、一番近いと思います。
 市街地と外部の往来は、船か切通しかありません。切通は7つあり、極楽寺坂切通(ごくらくじざか)、大仏切通、化粧坂(けわいざか)、亀ヶ谷坂(かめがやつざか)、巨福呂坂切通(こぶくろざか)、朝比奈切通(あさひな)、名越切通(なごえ)になります。
三浦半島観光地図:鎌倉市雪ノ下・巨福呂坂切通し

写真撮影:2009年02月17日

朝比奈切通

バス停十二所神社下車 徒歩13分
朝比奈切通
朝比奈切通

 朝比奈切通の鎌倉側です。今回は鎌倉側しか行っていないので、横浜側がどうなっているのかは良くわかりません。
 鎌倉側の朝比奈切通は、道というよりも、川です。水が沢山流れていて、靴がずぶずぶに濡れてしまいました。濡れても大丈夫な靴、しかも滑らない靴で来ないと、かなり苦労すると思います。私は何度も転びそうになりました(^^ゞ
 朝比奈切通は削り取られた山肌が壁のように迫っていて、古道の面影を良く残しています。国の史跡にも指定され、保護されています。
 最初に国指定の文化財になったのが、1969年(昭和44年)6月5日。その後、2003年(平成15年)8月27日に西側が追加、さらに2007年(平成19年)7月26日、2008年(平成20年)7月28日に追加指定されています。

写真撮影:2009年02月17日

大切通し

バス停十二所神社下車 徒歩13分
大切通し
大切通し

 朝比奈切通の崖です。朝比奈切通でも、こういった場所がたくさんあります。
 おそらく人工的に作られた切岸だと思います。鎌倉の防衛のために作られた、要塞施設のひとつと言っていいでしょう。戦国時代の山城で、多く見られる構造です。崖の上から、矢を射かけたのかな。
 こうした崖の上には平場が設けられていて、侍たちが待機する場所も造られていました。さらに屋敷のあった場所もあるようです。鎌倉という都市は都でもありますが、巨大な城塞でもあるので、切通は防衛施設としての役割も担っていました。
 切岸は山腹を垂直に削って、人工の崖にしました。平場は、兵士が敵を待ち構える場所です。掘割(ほりわり)、土手状の施設、切岸状に切り落とされた尾根道などがあります。

写真撮影:2009年02月17日

大切通し

バス停十二所神社下車 徒歩13分
大切通し
大切通し

 地層が見事な断崖です。ここもきっと、切岸だと思います。
 ただ、本来の目的が、切通を通すために造ったのか、鎌倉を防衛するために造ったのか、そこまでのことは良くわかりません。
 朝比奈切通は鎌倉〜六浦を結ぶために造られた切通しなので、それほど防衛を意識する必要はなかったと思います。
 切通は単なる交通手段だけではなく、経済的にも軍事的にも、重要な場所でした。発掘調査によって、切岸(きりぎし)、平場(ひらば)、堀切(ほりきり)があり、防衛遺構群も多く発見されています。13世紀後半の元寇(げんこう)によって、対外的防衛意識が高まり、防衛施設も充実していきました。元寇以降、土地紛争が激化したのも、防衛施設建設の理由だったと思います。

写真撮影:2009年02月17日

大切通し

バス停十二所神社下車 徒歩13分
大切通し
大切通し

 朝比奈切通といえば、ここの場所の写真が使われるのではないでしょうか。観光ガイドブックや、絵葉書にも使用される場所だと思います。この辺りのことを、「大切通し」って呼びます。ちょうど、鎌倉市と横浜市の境界線あたり。
 ここに来ると、今の自分はどこにいるんだろう、何時代にいるんだろうって、混乱してしまうほどの感覚になります。圧迫感があるのに、静寂な感じがします。
 朝比奈切通が結ぶ六浦は、北条家が支配していたこともあり、ほかの切通に比べれば防衛的な遺構は少ないです。それでもこれだけ大規模な切岸を作っています。

写真撮影:2009年02月17日

朝比奈切通

バス停十二所神社下車 徒歩13分
朝比奈切通
朝比奈切通

 落石注意の看板があり、そのすぐ隣には、本当に落石がゴロゴロと落ちています。
 鎌倉の岩石は、鎌倉石って呼ばれていますが、凝灰岩泥岩なのでかなり脆いです。わりと簡単に崩れてしまいます。
 鎌倉時代、北条泰時(ほうじょうやすとき)が執権だった頃。1240年(仁治元年)、幕府内で協議を行い鎌倉〜六浦(むつら)に道を作ることになりしました。
 すぐに御家人が手分けして測量を行い、執権北条泰時も実地検分を行いました。翌年の1241年4月5日に工事が開始され、泰時自身も工事をしました。完成した日は記録がありませんが、あまりにも早く完成したため、朝比奈三郎義秀(あさひなさぶろうよしひで)という豪傑が、一夜にして峠を切り開いたという伝説ができ、朝比奈峠の名前の由来にもなりました。

写真撮影:2009年02月17日

朝比奈切通

バス停十二所神社下車 徒歩13分
朝比奈切通
朝比奈切通

 朝比奈切通には、スギの木がいっぱい生えています。そして、ものすごい花粉に襲われます、しかも季節に関係なく大量の花粉が積もっています。間伐などの管理をしていないからなのかな、花粉の量も多いし、樹林下にそのまま花粉が残ってしまいます。
 靴もズボンも、花粉で真っ黄色になってしまいました。その後、靴は水に濡れて花粉は流れ落ちたのですが、ズボンは花粉だらけー。
 花粉症の人にとっては、ちょっとした地獄かもしれない・・・
 かつての六浦は、北条一門の金沢氏の所領となっていました。現在の六浦とだいぶ異なっており、房総半島を始めとして、江戸湾の内海航路と繋がっていました。東国の物資を鎌倉へ運搬するルートとして、とても重要な港でした。
 西国・相模湾との物資は、1232年(貞永元年)に築港された和賀江嶋(わがえのしま)が担っていました。
 鎌倉〜六浦間の物資輸送という経済的理由で作られたと言われていますが。幕府要人が鎌倉から逃れるためのものでもあります。戦で破れた時は、鎌倉から六浦・金沢に逃げ、船で房総半島まで落ち伸びるて再興を計るというのが当時の東国武士にとっての定番となっていました。

写真撮影:2009年02月17日

朝比奈切通

バス停十二所神社下車 徒歩13分
朝比奈切通
朝比奈切通

 朝比奈切通の道、だいたいはこんな感じで続いています。
 地面が水でビチャビチャになって川のように流れているのは、鎌倉側の入り口付近になります。
 脇道に反れると、花粉地獄が待っています。何ヶ所か、脇道があるみたいです。どこに辿り着くのか、良くわかんないんだけど。
 朝比奈三郎義秀は、源頼朝に早くからつかえており、初代侍所別当(さむらいどころべっとう)に任命された和田義盛(わだよしもり)の三男です。和田義盛は三浦市の和田から出た人物で、三浦氏の一族として源頼朝のもとに加わった優れた鎌倉武士でした。
三浦半島観光地図:人物事典・和田義盛
 朝比奈義秀は、早くから武勇で評判の人でした。

写真撮影:2009年02月17日

朝比奈切通

バス停十二所神社下車 徒歩13分
朝比奈切通
朝比奈切通

 崖のひとつです。こういった崖が、たくさんあります。切岸なのか、単なる崖なのか、ちょっと良くわかんない。
 1200年(正治2年)9月2日、源頼家(みなもとのよりいえ)が小坪の海岸で笠懸(かさがけ)を行い、終わってからは海上に船を浮かべて酒宴を開きました。頼家は朝比奈義秀が水泳が得意であることを聞き、泳ぐように命令しました。
三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代:笠懸
 朝比奈義秀は辞退するわけにもいかず、少し泳いで海底にもぐり、サメを3匹捕まえてきました。頼家はとても感心し、名馬を与えようとしました。
 しかしここで兄の和田常盛(わだつねもり)が反対し、義秀と相撲をとって勝った方に名馬をくれるように懇願しました。

写真撮影:2009年02月17日

朝比奈切通

バス停十二所神社下車 徒歩13分
朝比奈切通
朝比奈切通

 それほどたくさんあるわけではありませんが、石垣もあります。草の影になっていて、見付からないことも多いかもしれません。高い石垣ではないので、気が付かずに通り過ぎてしまうかもしれません。
 源頼家は朝比奈義秀と和田常盛の相撲に興味を持ち、船を岸に着けて、小坂太郎の屋敷の前庭で相撲をとらせることになりました。二人は裸になると、本当の力士のようで、取組み中は地震のように揺れたそうです。数度の取り組みにも、勝敗が付かず引き分けでした。
 常盛が劣勢になった時、二人の中に常盛の家来が割って入りました。そして常盛は、裸のまま頼家の名馬に乗って、逃げ去ってしまいました。その馬は奥州一の名馬で、大江広元(おおえのひろもと)が頼家に差し上げたものでした。
 義秀は兄にしてやられたと後悔し、大勢の家来たちはその姿を見て豪快に笑っていたそうです。義秀が武勇に優れた人物だったということがわかるエピソードです。

写真撮影:2009年02月17日

朝比奈切通

バス停十二所神社下車 徒歩13分
朝比奈切通
朝比奈切通

 ここも石垣です。草の葉や、落ち葉に隠れてしまって、見えなくなっています。石垣は防衛遺構ではなく、崩れるのを防止するために造ったものだと思います。高さも低いし、長く続いているわけでもないので。でも、高さ1mの石垣でも、鎧を身に付けていると乗り越えられないんだよねー。
 北条義時(ほうじょうよしとき)が和田義盛(わだよしもり)を排除しようとしたとき、和田義盛は一族郎党を率いて、義時の屋敷を襲撃しました。この時、朝比奈三郎義秀江は、和田四郎義直(わだしろうよしなお)、和田五郎義重(わだごろうよししげ)らの弟と一緒に父を助け、陣頭で奮戦しました。
 義秀は二領重ねの大鎧を着て、冑の緒を締め、9尺(約2.7m)の鉄棒を持って御所の門を押し破り、火をかけ、御所を全焼させ、多くの敵の大将や兵士を打ち倒しました。獅子奮迅の働きをし、身体にはひとつも傷を負いませんでした。
 しかし、義盛をはじめ、兄弟一族はみな討ち死にしてしまいました。義秀は負けを悟り、落ち伸びて勢力を整えようと考え、家来と共に海上から所領の安房(現在の千葉県)に逃れ、そのまま行方不明となりました。

写真撮影:2009年02月17日

朝比奈切通

バス停十二所神社下車 徒歩13分
朝比奈切通
朝比奈切通

 朝比奈切通は、スギの木でいっぱいです。花粉症の人は、気を付けた方がいいかもしれません。花粉症で喘息持ちの人は、かなり気を付けた方がいいかも。
 私は花粉症ではないので何ともありませんでしたが、喘息持ちなので翌日の朝がとても心配でした。幸いにして何事もなかったので良かったですが。
 朝比奈義秀は武勇に長けた人物だったので、伝説も残されています。
 和田合戦後、安房に逃れたのではなく、高麗(朝鮮半島)へ向かったとも言われています。
 遠く離れた宮城県黒川郡大和町にも、朝比奈三郎伝説があります。朝比奈三郎は船形山を作るために松島湾を掘り、掘った土を引きずって運んだ跡が吉田川になり、足跡が品井沼になり、籠からこぼれた土が七ツ森の山々になったと言われています。
 さらに現代では、大和町のゆるキャラ「アサヒナサブロー」になっているんです。

写真撮影:2009年02月17日

やぐら

バス停十二所神社下車 徒歩13分
やぐら
やぐら

 各所にあるやぐら。鎌倉の特徴とも言えるでしょう。
 やぐらがたくさんあるのは、鎌倉の中心部よりも、少し外れた場所になります。子供の頃は、お化けが出るんじゃないかなって思って、怖くて近付けませんでした(^^ゞ
 大人になってからは、心がけがれてしまったのかなー。平気でズカズカと中に入れるようになってしまいました。本当は入らない方がいいんだろうけど・・・
 朝比奈切通のどこかに、明治時代末期まで経営していた茶屋跡があります。再び訪れる機会がありましたが、探してみます。

写真撮影:2009年02月17日

やぐら

バス停十二所神社下車 徒歩13分
やぐら
やぐら

 地面に埋もれかけているやぐら。やぐらにもたくさんの種類があって、天井が丸いものが多いです。その次に、三角形になっているもの。そして四角形になっているもの。四角形のやぐらは、大型のものが多い気がします。

写真撮影:2009年02月17日

やぐら

バス停十二所神社下車 徒歩13分
やぐら
やぐら

 崖の上に並ぶやぐら群。鎌倉ならではの光景ではありますが、ここは本当に日本なのかなって思うような光景でもあります。どこか海外の古代遺跡にでも迷い込んじゃったのではないか、そんな錯覚すら覚えるような光景です。

写真撮影:2009年02月17日

やぐら

バス停十二所神社下車 徒歩13分
やぐら
やぐら

 崖の上の方にあるやぐらって、どうやって作ったんだろうと不思議に思うこともあります。朝比奈切通だけではなく、他にも見ることができるので。
 もしかしたら、後世になってから切通の掘削工事が行われたのかもしれないです。最初に作られた切通しがやぐらの高さで、その後に道を掘り下げたので高い場所にやぐらがあるのかもしれません。

写真撮影:2009年02月17日

石仏

バス停十二所神社下車 徒歩13分
石仏
石仏

 やぐらの中に、石仏・石造が残されています。地蔵と五輪塔です。朽ち果てているので、かなり古そうな気がします。

写真撮影:2009年02月17日

磨崖仏

バス停十二所神社下車 徒歩13分
磨崖仏
磨崖仏

 崖に彫られていた磨崖仏です。写真で見ると小さく見えるかもしれませんが、大き目の磨崖仏です。高さ1m以上はあるんじゃないかなー。朝比奈切通の写真撮影ポイントです。
 この磨崖仏がある場所、周辺の岩が綺麗に削られているんですよ。この場所は、鎌倉石を切り出した場所なんじゃないかなーと思います。石を切り出すために、供養や祟り除けの意味も含めて、磨崖仏を彫ったのかなーなんて思いました。

写真撮影:2009年02月17日

道造供養塔

バス停十二所神社下車 徒歩13分
道造供養塔
道造供養塔

 1812年(文化9年)に建てられた、道造供養塔です。
 1812年といえば江戸時代ですが、この切通しが造られたのが江戸時代というわけではありません。人が通りやすいように拡幅工事が行われ、その記念や道中の安全を願って建てられた供養塔でしょう。
 江戸時代に整備が行われたと言う記録が残されているので、その時のものだと思われます。開通した直後、1250年(建長2年)6月にも補修工事が行われています。
 1956年(昭和31年)に県道204号が開通するまで使われていた道なので、わりと最近まで生活道路として使われていました。開発されずに使われ続けていたので、昔のまま残されたのかもしれません。

写真撮影:2009年02月17日

石塔

バス停十二所神社下車 徒歩13分
石塔
石塔

 南無阿弥陀仏供養塔って書いてありました。碑文によれば、1780年(安永9年)に建てられたもののようです。
 江戸時代には石造仏を建てる習慣があったので、そういった習慣のひとつでしょう。

写真撮影:2009年02月17日

石仏

バス停十二所神社下車 徒歩13分
石仏
石仏

 上部は欠けているし、真ん中にはヒビが入っています。たぶん、倒れちゃったときに割れちゃったんですね。
 江戸時代に建てられた石仏です。こういった石仏はどこにでもあり、お墓ではありません。ですが、何か意味があって建てられたものではあります。
 ビンの中に入っている液体が、不自然なほどの茶色だったんだけど、何が入っているんだろう・・・

写真撮影:2009年02月17日
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