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三浦半島の歴史1


三浦半島で人々の生活が始まる

2万数千年前から

 

 豊かな自然、温暖な気候、良質な湧水などの飲料水に恵まれていた三浦半島。
 そんな三浦半島に人が住み始めたのは、約2万数千年前からだと考えられています。

縄文時代は狩猟と採集が中心

   そして、縄文式土器を使用する時代が訪れます。夏島、平坂、吉井、茅山などの貝塚からの出土物を見ると、その生活ぶりをうかがい知ることができます。
 彼らの生活は、狩猟や採集が中心で、特に漁業が生活の中心だったことを思わせる痕跡がたくさん見られます。丸木舟に乗って沖に出て、クジラやマグロなどの大型の魚を獲っていたこともわかってきました。
 平坂貝塚からは人骨も発掘され、人骨の分析から、縄文時代の生活の苦しさや生活習慣も知ることができました。
三浦半島の歴史:横須賀市若松町・平坂貝塚平坂貝塚
三浦半島の歴史:横須賀市池田町・大塚台古墳公園(吉井遺跡群)大塚台古墳公園
三浦半島の歴史:横須賀市佐原・慈眼院(茅山貝塚)慈眼院

稲作が始まる

   縄文時代後期以降になると、三浦半島でも稲作が始まります。水田は谷戸に作られました。
 弥生時代の遺跡、逗子市池子の池子遺跡群からは、1000点を超える木製品が発見されました。その中には、鍬(クワ)や、鋤(スキ)などの農機具もありました。横須賀市鴨居の上ノ台や佐原泉遺跡では、火事で焼けた家の中から、炭の状態となった米が出土しています。

格差社会

   小泉改革による格差社会、、、じゃなかった、三浦市の赤坂遺跡では、直径1メートル以上の柱穴が発見されました。これは大きな家族による、集団生活が営まれていたと考えられます。
 そして稲作によって、村の中に貧富の格差が生まれるようになりました。それによって、統治する力を持つ者が現れたと考えられます。

古墳の出現

   村全体を統治する者が登場することによって、三浦半島にも権力の象徴である古墳や、横穴墓が作られるようになりました。
 近年まで、三浦半島には強い権力を持った豪族は存在しなかったと考えられていました。しかし、逗子市、葉山町をまたぐ土地に、全長90メートル近くもある長柄桜山古墳群が発見されました。ここに葬られていた人物が、三浦半島地域で海上交通を支配していた最初の王ではないかと考えられています。

人も食べてたよ

   三浦半島でもっとも良く見かけるのが、横穴式古墳です。普段の生活で目にしている崖などに掘られた横穴も、古墳であったりすることがあります。
 三浦市の雨崎や、大浦で発見された古墳では、骨で占いをしたり、亡くなった人の技術や知恵を自分の中に取り入れるため、食人の風習がありました。

三浦半島が歴史に登場するようになる

律令体制下へ

 

 7世紀ごろになると、三浦半島にも律令体制の下に置かれました。三浦半島は、相模国御浦群となりました。
 三浦半島が「三浦」ではなく、「御浦」と書いて「みうら」と呼ばれていました。『日本書紀』で、692年(持統天皇6年)5月に、三浦半島で朱烏の雛が捕らえられ、これを吉祥のしるしとして喜んだ天皇が、烏を捕らえた場所に「御」を赦して、「御浦」としました。そして、当時の税である「調」を3年間免除したと書かれています。

走水郷と、氷蛭郷

   奈良の正倉院に残っている資料によれば、この時代の御浦群には走水郷と、氷蛭郷があったことがわかっています。
 走水郷は、天武天皇の皇子高市皇子の娘だった山形女王の封戸となっており、氷蛭郷は檜前女王の封戸となっていました。
 檜前女王の系譜に関してはわかっていませんが、天武天皇の親族が三浦半島に封戸を持っていたことは注目すべきことでしょう。

古東海道

   こうして、三浦半島と都とを結ぶルートが必要になりました。このルートは、古東海道と呼ばれています。
 しかし残念なことに、三浦半島内では古東海道と思われるような痕跡は見付かっていません。御浦群の群役所のあった場所も、わかっていません。横須賀市衣笠にあった宗元寺(現在の曹源寺)の周辺が有力視されていますが、確証は取れていません。

荘園

   古代末期から、中世にかけての人々の生活の場は荘園でした。荘園とは、皇族、貴族、大寺社の私有地のことです。
 三浦半島には、三崎荘と、三浦荘とが知られています。三崎荘は藤原氏が所領していましたが、三浦荘はわかっていません。しかし、三浦荘の荘官にあたっていたのが、武士団として成長してきた三浦一族でした。その勢力は三浦半島やその周辺にも伸ばしていました。

三浦半島と三浦一族

三浦一族の出現

 

 三浦一族が、いつから三浦半島に住みつくようになったのかは、わかっていません。
 後三年の役を記した『奥州後三年記』には、三浦平太郎為次(為継・ためつぐ)の名があります。この時すでに、三浦半島に館を構えていたものと思われます。
 為継の子、義継(よしつぐ)、さらに義明(よしあき)の代になると、三浦一族の力は三浦半島では不動のものとなっていました。
三浦半島の歴史:人物事典・三浦義明三浦義明

鎌倉幕府では要職に就く

   平治の乱で破れた源氏の源頼朝が、石橋山で源氏再興の旗揚げをします。三浦一族はいち早くそれに加わりました。その初戦では、本拠地であった衣笠城は攻め落とされ、三浦義明は城と共に命を落としました。
 しかし、鎌倉幕府が成立するころには、執権北条氏と共に、鎌倉幕府を支える有力御家人の地位を獲得し、その力を存分に発揮していました。

北条氏との権力争いに破れる

   三浦一族は、三浦半島の各所に城や館を築き、力を貯えていました。その力が大きくなり、北条家からは疎ましく思われるようになり、ついには戦となりました。
 和田の乱、宝治の乱で北条氏との権力争いに破れ、三浦一族の本流は滅びてしまいます。わずかに、北条氏と姻戚関係にあった佐原氏のみが滅亡をまぬがれます。
三浦半島の歴史:1213年・和田義盛の乱和田義盛の乱

南北朝時代・室町時代

   南北朝時代、室町時代には、三浦一族は相模国の守護などをして鎌倉府を支えます。この時代の三浦一族の領地は、三浦半島南部だったとされています。

戦国時代

   戦国時代に入ると、小田原城を本拠地とする後北条氏が台頭してきました。
 後北条氏は、三浦一族をけん制するために、鎌倉に玉縄城を築きます。1516年(永正13年)、後北条氏は三浦市油壺の新井城を攻め落とし、三浦道寸父子は討ち死にし、三浦一族は滅亡しました。
三浦半島の歴史:三浦市三崎町小網代の史跡巡り小網代

三浦一族の流れを組む者たち

   下記の略系図を見てもわかるとおり、嫡流以外は三浦姓を名乗らず、自分の領地の地名を苗字としていました。その結果、嫡流以外でも歴史上たくさんの三浦一族の流れを汲む人物が存在します。
 また、三浦一族は桓武天皇の流れを汲むとされていますが、実際には三浦半島に住み着いていた豪族で、関わりがないようです。初代三浦姓の三浦為道も伝説上の人物ではないかとの説もあります。
 嫡流以外の三浦一族の流れを汲む人々は、安西氏、宮沢氏、平子氏、津久井氏、蘆名氏、岡崎氏、杉本氏、和田氏、大多和氏、多々良氏、佐久間氏、長井氏、杜氏、佐原氏、正木氏などが存在します。

三浦一族略家系図

桓武天皇 高望王 平良文 忠頼 忠通 三浦為道 為継 義継 義明 杉本義宗 和田義盛  
    (平高望) 平国香           (以下、記載無き者は三浦姓)         津久井義行 義澄 義村  
      平良将                   芦名為清 大田和義久 山口有綱  
                            岡崎義実 多々良義春 大河戸重澄  
                            長井義季 胤義  
                                森戸重行 三戸友澄  
                                   
                                   
                                佐原義連 ・・・・・・・・・・・ 道寸
                                     
                                     
                                     
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