そらいろネット > 三浦半島観光地図 > おまけ > 三浦半島の歴史2
三浦一族から三浦半島を奪い取る事に成功した後北条氏は、三崎に城を築きました。また、海を渡ってたびたび攻め寄せてくる房総半島の里見氏に対抗するため、水軍を強化し、浦賀に拠点を築きました。こうして、三浦半島の後北条氏による支配は、約80年続きました。 しかし、豊臣秀吉・徳川家康の小田原城攻めに敗れ、徳川家康が関東平野の新しい領主になりました。三浦半島は、代官の長谷川七左衛門が支配することとなりました。 長谷川七左衛門は、三浦半島に着任して最初に太閤検地を行いました。新しい尺度による検地で、これによって三浦半島の村々は村高が決められ、年貢の換算基準となりました。
三浦半島の村々に大きな変化が現れるようになったのは、19世紀初頭の江戸湾警備のために会津藩が常駐するようになってからです。 日本近海で外国船の姿をしばしば目にするようになり、江戸湾を警備するために会津藩が台場を築きました。その応援に三浦半島の村人が手伝わされました。
1871年(明治4年)、横須賀製鉄所は完成しました。 横須賀製鉄所の完成は、これからの近代工業の発展に寄与しただけでなく、労働環境なども一変し、あらゆる面で近代日本の手本となるような工場でした。
昭和の始まりは、世界恐慌の影響で不況となりました。 軍備縮小条約が締結され、横須賀海軍工廠では1800名以上の大リストラが敢行されました。 せっかく開業した湘南電鉄(現在の京浜急行)は、路線の不便さもあり赤字経営が続いていました。