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西田明則之碑 |
JR横須賀線
衣笠駅下車 徒歩20分
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明治時代〜大正時代にかけて、観音崎と富津岬の間に第一海堡・第二海堡・第三海堡が建設されました。海堡とは、砲台を置くために海上に造られた人工島です。猿島や観音崎公園の中などにも、たくさんの砲台跡があり、要塞地帯だったことがうかがえます。中でも第三海堡のように水深が深い場所での大規模な海上要塞は、世界でも類を見ないものでした。
「西田明則之碑」は、大正12年9月1日の関東大震災の直前、大正12年3月31日に完成し、4月22日に除幕式が行われました。石碑の建設場所として、第一海堡、第二海堡、第三海堡が見える衣笠山公園が選ばれました。
第三海堡は関東大震災によって壊滅的な打撃を受け、なかば暗礁と化して現在に至っています。航路安全のため、2000年(平成12年)12月、水深23mまでを撤去する予定になっています。
碑文の現代語訳は以下のようになります。
東京湾に3つの海堡を山のようにそびえ立たせ、帝都の入り口の砦とし、海上防衛の備えとする。1879年(明治12年)、参謀本部内に海岸防禦取調委員を置いた。間もなく、陸軍工兵少佐西田君は常任委員として、もっぱら従事することとなった。東京湾海堡の設計・施工の多くは西田君が苦労し、心を尽くして行ったものである。それは中国の禹の治水に勝るとも劣らないものであった。(禹は古代中国伝説上の王で、治水の功がありました)
ことに、第三海堡の位置は水深が20尋(ひろ)余り(現在で約40m)もあり、潮流はこれまでに例のない速さであった。人々は大いにこれを危ぶんだ。しかしながら、西田君はあらゆる方面に説いて回り、その結果、ついに今日、完成するに至ったのである。これは、あらかじめ成功する成算がなければ成し遂げられなかったものである。西田君の功績は偉大というべきである。
西田君は名を明則と言い、山口県出身で、見識と度量があり、数学に精通していた。1886年(明治19年)に陸軍技師となり、一生、その職にあった(軍役を退いたのちも技師として陸軍に奉仕した)。1906年(明治39年)5月21日、西田君は80歳にして竣工を見ることなく逝去され、横須賀聖徳寺の墓地に葬られた。今、この3月(1922年(大正11年)3月、「東京湾防備ニ関スル陸軍少佐西田明則君ノ紀念建碑趣意書」が配布され建碑活動が開始された)、志を同じくするものがあい計らい、衣笠山公園に碑を建て、後世に伝えることとした。
このたび、各皇族より御下賜金を戴いた。大いに名誉なことである。私は西田君と交誼があったので、この碑文を作成した。西田君の遺言は骨を三つの海堡を一目で見える所に埋めて、霊魂が長く三つの海堡を護ることを望むものであった。
あゝ、君は死してのちもなお、心を尽くし、国のためにつとめるのか。
1922年(大正11年)8月、元帥陸軍大将 子爵 上原勇 作撰。
三浦半島観光地図:横須賀市猿島・猿島の風景 三浦半島観光地図:横須賀市田戸台・聖徳寺
三浦半島観光地図:横須賀市平成町・うみかぜ公園(引き上げられた第三海堡の一部が展示)
三浦半島観光地図:横須賀市平成町・東京湾口航路事務所(海堡に関する情報)
三浦半島観光地図:千葉県富津市富津・第二海堡 |
写真撮影:----年--月--日 |
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日露戦役忠魂慰霊碑 |
JR横須賀線
衣笠駅下車 徒歩20分
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遠くから見た衣笠山公園に建つ「日露戦争忠魂慰霊塔」です。
昔の写真ですが、いつ撮影されたものなのかはわかりませんでした。 |
写真撮影:----年--月--日 |
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昔の絵葉書の写真の衣笠公園です。衣笠公園のどのあたりになるんだろう・・・。場所がさっぱりわかりません(TωT)。現在の衣笠公園とは、かなり雰囲気が違いますねー。公園っていうよりも、ただの山にしか見えない(^^;)
衣笠町の衣笠城址かなって思ったんですが、横須賀市小矢部の衣笠公園って書かれてあるんですよね。 |
写真撮影:----年--月--日 |
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