|
|
だいぶ前から名前だけは知っていた「お穴さま」。「おけつさま」って読むのかなーとか、はたまた「おしりさま」って読むのかなーとか、考えていたりもしました。
日蓮が21日間篭り、大願成就の祈念を行なったと伝えられる座禅窟です。その後、日蓮は鎌倉へと向かいました。手持ちの資料などには、奥深い洞窟と書かれているんですが、ただの岩穴ですね。
当時はこのあたりまで、波打ち際でした。1889年(明治22年)、米が浜が埋め立てられ、埋め立てられた場所は観念寺と呼ばれるようになりました。 |
写真撮影:2007年09月26日 |
|
|
とても長い洞窟があるのかと思っていたんですが、ちょっとガッカリ。有名なわりには、だいぶ小さな洞窟でした。
ちょっと期待が大きすぎたかな?
日蓮が千葉からやってくる際の伝説に登場する、石渡左衛門の願いによって、この地に草庵が建てられました。これが米が浜道場、または法華堂と呼ばれ、龍本寺の始まりとされています。
三浦半島観光地図:横須賀市深田台・龍本寺 |
写真撮影:2007年09月26日 |
|
|
あっ!いた!!
中を覗いてみると、いましたー、日蓮上人です。思っていたよりも、小さい人でした。
ここまでくるには龍本寺から、細い脇道を下るか、横須賀共済病院から続く坂道を上るかしかありません。行きづらい場所にありますが、お参りに来る人は意外と多いようです。 |
写真撮影:2007年09月26日 |
|
|
お穴さまのすぐ隣には、石造のお社もありました。お穴さまの周辺は、かなり補修したりしているみたいですね。昔からの状態ではなさそうで、とても新しい雰囲気があります。
「お穴さま」や「お穴様」と呼ばれる場所は、全国各地に何ヶ所もあるみたいです。 |
写真撮影:2007年09月26日 |
|
|
「南無日蓮大菩薩」と刻まれた石碑。
そしてその脇には、朽ち果てかけた五輪塔が3基、並んでいました。かなり歴史を感じさせる五輪塔です。正直なところ、お穴さまそのものよりも、こちらの五輪塔の方が歴史を感じさせるものがありました。
お穴さまは、明らかに近年になって補修をしていますが、補修前がどうなっていたのか気になりますね。もしかしたら、もっと深い岩穴だったのかもしれないですし。 |
写真撮影:2007年09月26日 |
|
|
龍本寺とお穴さまを結ぶ道です。階段の高さがバラバラなので歩きづらいのですが、緑が豊かで疲れを感じさせませんねー。
途中にギンナンの木が何本かあり、ギンナンの実がたくさん落ちていました。僕はこのあとも用事があり、ギンナンの臭いが気になるので拾いませんでしたが、近所の人が拾っていました。
繁華街や住宅街で緑の少ない横須賀中央エリアでは、緑の多いこのエリアというのは貴重な地区ですね。人にとってもそうですが、動植物たちにとっても貴重な地域であることは間違いないでしょう。
ベランダ園芸:イチョウの育て方 |
写真撮影:2007年09月26日 |
|
|
龍本寺とお穴さまとの中間に建つ石碑。【第七大手丸海難慰霊碑】と刻まれています。
昭和41年10月11日夜、剣崎沖で東神油槽株式会社のタンカー第七大手丸(365t)が、台湾の貨物船チャンキング・ビクトリー号(7305t)に衝突され沈没しました。7人の乗組員は全員が絶望、3ヶ月にわたる捜索にもかかわらず、遺体すら発見することができませんでした。
東神油槽株式会社社長の大河鶴四氏によって、遭難現場近くの龍本寺境内に慰霊碑が建てられました。
毎年、遭難した日には供養が行なわれるそうです。 |
写真撮影:2007年09月26日 |
|
|
龍本寺とお穴さまとの中間に建つ石碑。
【芳魂永存】と刻まれ、書は徳富蘇峰(とくとみそほう)によります。石碑の裏には、書道家の風外の筆による以下のような詩が刻まれています。【憶雪江嬢 承性洵敦雅 学深才色芳衆 望凝化碣成沸 寿無量 (風外賢題)】。
当時、横須賀で検事を務めていた山口昇氏に、雪江さんという娘さんがいました。学問を好み、教養豊かな一人娘でしたが、不治の病のために横須賀共済病院で亡くなりました。
故郷の山形県に埋葬されましたが、父親の悲しみに集まった知人たちにより、横須賀共済病院の見えるこの場所に、昭和12年に石碑を建てました。
三浦半島観光地図:横須賀市米が浜通・横須賀共済病院 |
写真撮影:2007年09月26日 |
|
|
|
|
|
|