日本国内では、開国派と、攘夷派が対立する中にあって、小栗忠順は製鉄所(造船所のこと)建設の必要性を説き、幕府の財政が逼迫している折にもかかわらず、強行な反対にも押し流されずに、その計画を推し進めていきました。
ついに建設計画は決定され、その任務は、フランス公使ロッシュや、技師ヴェルニーに託されることとなりました。小栗中順はロッシュと共に、横須賀湾や、長浦湾の調査をしたともいわれています。
慶応元年(1865年)には、横須賀製鉄所の起工式が行われました。
横須賀製鉄所は江戸幕府崩壊とともに、明治新政府によって引き継がれ、明治4年(1871年)に横須賀造船所に改名され、さらに海軍造船所となり、横須賀海軍工廠へと発展しました。
のちに、この判断が、横須賀の発展や、日本の近代化に大きな影響をもたらすことになりました。横須賀製鉄所が建設されたのは、時代の動向の結果ともいえますが、横須賀製鉄所建設の生みの親ともいえる多くの人々の代表的な人物となりました。
三浦半島の歴史:横須賀市深田台・博物館前公園 |