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源頼朝の墓


源頼朝の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
地図
源頼朝の墓
源頼朝の墓

 源頼朝のお墓へと通じる石段です。とても急な石段なので、転ばないように注意しましょう。
 山に向かって石段が続きますが、この山を大倉山といいます。大倉山の南の中腹、国の史跡に指定されている源頼朝の墓があります。この場所から、源頼朝が作った大蔵幕府を一望することができます。
 玉垣の中の層塔(そうとう)が源頼朝の墓です。
 昔は約1mの五輪塔でしたが、1779年(安永8年)、源頼朝の子孫という薩摩藩主島津重豪(しまづしげひで)によって、東側に隣接する横穴に先祖の墓を作った際、大御堂(おおみどう・勝長寿院)にあった層塔が移されました。
 近年、何者かによって破壊されたため、現在の層塔はあらたに復元したものです。
三浦半島観光地図:鎌倉市雪ノ下・大蔵幕府跡

写真撮影:2007年02月28日

源頼朝の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
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源頼朝の墓
源頼朝の墓

 源頼朝のお墓とされる層塔です。以前、ここにお土産屋のような茶屋が建っていましたが、現在はなくなってしまったようです。子供の頃、ここでお土産のお財布を買ったんだよなー。
 源頼朝は、平治の乱の後、伊豆の蛭ヶ小島に流されました。1180年(治承4年)8月17日、挙兵し、幾多の苦難を乗り越え、10月に鎌倉入りして武家政権の基礎を築きました。
 大倉の邸内には持仏堂を建て、法華経購読をしました。その後、奥州攻め出発直後、邸の背後の山に持仏の聖観音を安置する観音堂建立を命じました。
 1198年(建久9年)、相模川に橋を架け、その供養に出かけましたが、帰り道で落馬したことが原因で、1199年(正治元年)正月に53歳で亡くなりました。百日忌は持仏堂で行い、翌年の一周忌以降、持仏堂ではなく、法華堂と呼ばれるようになりました。
三浦半島観光地図:鎌倉市西御門・白旗神社

写真撮影:2007年02月28日

源頼朝の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
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源頼朝の墓
源頼朝の墓

 天下人のわりには、小さなお墓。
 当時の有力者は、埋葬場所に墳墓堂を建てたり、蔵骨器に納めた火葬骨を新しく建てた墳墓堂に安置するのがならわしでした。墳墓堂では法華経供養が行われたので、法華堂とも呼ばれます。
 1213年(建保元年)、和田義盛の乱で幕府の建物すべてが焼かれ、3代将軍源実朝は幕府背後にある源頼朝の法華堂に避難しています。
 1231年(寛喜3年)、大火により法華堂とそこに納められていた遺品の数々は、北条義時の法華堂と共に焼失しました。法華堂は焼失後は再建しないのがならわしでしたが、特例として寺家で再興することにしました。1232年(貞永元年)、完成しています。
 1247年(宝治元年)、北条氏の不意討ちで邸を焼かれた三浦泰村、三浦光村兄弟や一族郎党500余人が法華堂に立てこもり自害しています。
 近年の発掘調査によれば、白旗神社境内中央あたりの現在の地表の1.5mほど下に、岩盤を削って北へと上る階段の痕跡が発見されました。現在の階段は後世に作られたもので、元々はもっと西側にありました。また、鎌倉時代初期の瓦や青白磁の香合の破片などが多数出土しました。
三浦半島観光地図:1213年・和田義盛の乱
三浦半島観光地図:人物事典・和田義盛
三浦半島観光地図:鎌倉市西御門・三浦泰村の墓

写真撮影:2007年02月28日

源希義墓所の土と石

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
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源希義墓所の土と石
源希義墓所の土と石

 1159年の平治の乱の際、源義朝が平清盛に敗れ、息子の源頼朝と源希義は捕らえられました。源頼朝は当時13歳、源希義は当時3歳でした。
 それ以来、一度も兄弟が再会することなく、今日に至っています。
 1994年(平成6年)、源頼朝公報恩会と、源希義公顕彰会の手により、互いの墓所の土と石を交換し、兄弟の再会をさせました。
 また、1211年(建暦元年)、鴨長明(かものちょうめい)が源頼朝の墓参りをした際、昔の様子を思い浮かべ、以下のような歌を残しています。
 「草も木も、なびきし秋の、霜消えて、空しき苔を、払う山風」

写真撮影:2007年02月28日
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