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 浄林寺

浄林寺 京急馬堀海岸駅下車 徒歩10分
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浄林寺
浄林寺
 浄土宗のお寺で、七重山宝寿院浄林寺と言います。
 創建は戦国時代の1505年(永正2年)です。安土桃山時代の1589年(天正17年)とされている資料もあります。1589年創建の資料では、開山は廓誉智的和尚です。
 寺宝や縁起・歴史などは火災によって焼失してしまいましたが、増上寺に浄林寺に関する古文書が残されていると伝えられています。
三浦半島観光地図:東京都港区芝公園・増上寺
 三浦地蔵第二十九番札所となっており、地蔵尊は12年毎の卯年に御開帳されます。
 三浦薬師第五番札所にもなっており、薬師像は33年後とに御開帳されます。次回の御開帳は2017年の予定となっています。
写真撮影:2008年04月02日

浄林寺 京急馬堀海岸駅下車 徒歩10分
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浄林寺
浄林寺
 ちょうど境内の工事中だったみたいで、石材店の軽トラックなどが停車していました。工事中の風景や、関係者が映らないように、頑張って写真を撮ってみました。アングルが限られてしまうので、これが限界。
 浄林寺の裏山は、大蛇塚と呼ばれ、伝説が残されています。昔、大タコと大蛇が格闘し、ついに疲れ果て共に死んでしまいました。その大蛇の遺骸を村人が畚(もっこ)を70回も担いで葬ったと言われています。昔から住んでいる人の中には、「七十畚の浄林寺」と呼ぶ人もいます。
 ちなみに畚とは、前後2人でもっこ棒を担いでカゴを吊るして運ぶ昔の道具のこと。農作業や土木工事などで、重くて1人じゃ運べないような物を運ぶときに使います。
身近な生き物図鑑:身近な爬虫類図鑑
身近な貝殻図鑑:貝を持たない軟体動物
写真撮影:2008年04月02日

浄林寺 京急馬堀海岸駅下車 徒歩10分
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浄林寺
浄林寺
 本堂まで近付いてしまえば、工事関係者が映り込むこともなく、安心して写真が撮れます。
 境内には、三浦半島では珍しいムクロジの木があります。どれがムクロジの木なのか探してみましたが、良くわかりませんでした。後で知ったんですが、境内に入ってすぐの場所に生えている背の高い木がムクロジの木でした。
 ムクロジは関東以西の温暖な地域に分布する樹木ですが、神奈川県でもあまり生えていない樹木です。
 ムクロジはサポニンを多く含んでいるため、インドでは石鹸を意味しています。日本でも石鹸の代用として使用されたり、種子は羽根つきの玉に使用されます。
身近な植物図鑑:ムクロジ科
 境内にはウメの木がたくさん植えられていて、綺麗に咲いていました。ウメの花はお寺と合いますねー。本当はムクロジの木の写真を撮りたかったんだけど。
身近な植物図鑑:ウメ
写真撮影:2008年04月02日

阿弥陀三尊像 京急馬堀海岸駅下車 徒歩10分
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阿弥陀三尊像
阿弥陀三尊像
 こっそり本堂に侵入して盗撮してきましたー。ご本尊の阿弥陀三尊像でございます。大変立派な仏様でございます。
 本尊は阿弥陀三尊像で、江戸時代前期の1654年(承応3年)に作られたものです。
 浄林寺の阿弥陀如来とあまり関係ないかもしれませんが、「あみだくじ」の「あみだ」は、阿弥陀如来に由来します。あみだくじは室町時代から存在します。当時のあみだくじは、真ん中から外に向かって放射線状に人数分の線を書いて、それを引いたものでした。それが阿弥陀仏の光背に似ていたことから、あみだくじと呼ばれるようになりました。
写真撮影:2008年04月02日

馬頭観音像 京急馬堀海岸駅下車 徒歩10分
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馬頭観音像
馬頭観音像
 再び本堂に侵入して盗撮。今度は馬頭観音の写真を撮ることに成功。写真は撮るけど、仏像は盗りません。
 って、実は説明看板に掲載された写真を、写真に撮っただけだったりするんですよ。勝手に本堂の中に侵入するなんて、そんなことはしませんよ。ましてや許可もなく、仏様の写真を撮影するなんて、そんな失礼なことはできません。
 三浦観音第二十番札所にもなっています。馬頭観世音菩薩像が本堂に祀られています。浄林寺前の坂上の馬頭観音堂には、「馬堀」の地名の由来ともなった名馬・生月(いきづき)の像や、「蹄の井」があります。
三浦半島観光地図:横須賀市馬堀町・蹄の井
写真撮影:2008年04月02日

浄林寺 京急馬堀海岸駅下車 徒歩10分
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浄林寺
浄林寺
 訳ありな感じの石がありました。
 短歌の歌碑か、俳句の句碑などの石碑だと思います。ちゃんと確認していないので、正確にはわかりません。
 浄林寺の北西側崖面、走水第一隧道横の山腹に古墳時代の遺跡があります。馬堀横穴墓群、別名、馬堀浄林寺裏横穴墓群と言います。小原台から東京湾に向かって西に派生する支丘の裾近くです。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・走水隧道
三浦半島観光地図:横須賀市小原台
 数穴が存在し、1945年(昭和20年)に2穴が調査されています。西向きに開口し、玄室は平面形長方形のドーム型をしており、床面には礫が敷かれていました。
 第1号穴は玄室幅3.0m〜3.35m、奥行き4.15m、高さ1.7mあります。ガラス製小玉、銀製耳鐶、金銅製耳鐶、鉄製鍔片、鉄鏃片、土師器が出土しています。
、第2号穴は玄室幅4.0m、奥行き3.6mありました。ガラス製管玉、ガラス製小玉、小銅鍔片、直刀片、鉄製鍔片、鉄鏃片、鹿角装刀子片、鉄製釘、不明鉄製品、土師器片、須恵器片が出土しています。
 形態や規模などの特徴から、古墳時代の古式の横穴墓群と考えられています。
写真撮影:2008年04月02日

大震災殉死者之霊 京急馬堀海岸駅下車 徒歩10分
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大震災殉死者之霊
大震災殉死者之霊
 関東大震災の慰霊碑、このお寺にもあるんですね。関東大震災の三浦半島での被害の大きさを、感じさせられます。ページ作成しているのが東日本大震災後なので、特に気になりますね。
 1923年(大正12年)9月1日(土)11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源とするマグニチュード7.9の大正関東地震が発生しました。その後、12時1分、12時3分に連続して地震が発生したため、5分以上の揺れが発生しました。3つの地震が連動して起きた東日本大震災に良く似ています。
 横須賀市内では死者683人、負傷者897人。全壊家屋8300戸、全戸数1638150.7%が全壊。山手の平坂上、中里では、倒壊率90%に及び、道路の両側の家屋が潰れて瓦礫が散乱し、通行不能状態となってしまいました。
 横須賀市内数ヵ所から火災も発生し、大滝町などは焼き尽くされ、全半焼4700戸で全戸数の28.7%を占めました。水道は断水し消火活動が行えず、海軍・陸軍部隊の出動で翌日の9月2日午後5時頃にようやく鎮火しました。
三浦半島観光地図:横須賀市大滝町
 区裁判所、三浦郡役所、小学校3校、市立病院も全壊。高等女学校1校が半壊。小学校6校が大破。有名な寺社20以上が全半壊。第二銀行支店はじめ銀行5行、深田台の海軍病院。
 横須賀軍港では、重油タンクが炎上。港内やドック内の軍艦、海軍工廠の建物も被害を受けました。その他の海軍・陸軍施設も全壊、半壊、大破、全焼などの被害を受けました。
三浦半島観光地図:横須賀市楠ヶ浦・横須賀軍港
 崖崩れやトンネル崩壊も発生。田浦駅近くのトンネルでは走行中の列車が埋没。崖崩れにより軍港側の港町通りで犠牲者58人。
三浦半島観光地図:横須賀市汐入町・港町公園
 津波は震源地に面した三浦半島の西側、三崎、逗子、鎌倉で被害が発生しました。三浦で6mの津波が発生したと記録されています。
 三浦半島全域で、地盤の隆起が起こりました。
 東京や横浜であったとされる朝鮮人殺害事件は、軍都であり早くから海軍・陸軍の出動により治安が維持されたこと、練兵場に仮設住宅を建て朝鮮人を非難させたため、起こりませんでした。このため多くの朝鮮人が横須賀に避難してきました。これは朝鮮人が放火して回っている、井戸に毒を入れたなどのデマが原因でした。三浦半島が水没したというデマもありました。
写真撮影:2008年04月02日

庚申塔 京急馬堀海岸駅下車 徒歩10分
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庚申塔
庚申塔
 浄林寺の入り口に建つ4基の庚申塔。どれも痛みが激しい庚申塔でした。
 左側の駒型の文字碑は、1865年(元治2年)4月に建てられたものです。
 左から2番目は、1695年(元禄8年)11月2日に建てられた庚申塔です。
 左から3番目は、痛みが激しく確認できませんでした。
 右側の角柱型の文字碑は、全体的に彫りが浅くて確認できませんでした。
 庚申信仰は、人の体内にいる三尸(さんし)の虫が、60日毎に回ってくる庚申の夜、天に昇ってその人の罪科を天帝に告げるため命が縮められるとする、中国の道教の教えが元になっています。昔の人なので、寄生虫を三尸の虫に例えたのかもしれません。
 そして庚申の夜には、眠らずに言行を慎み、健康長寿を祈願する信仰遊戯が行われるようになりました。
 庚申信仰には道教の信仰が底流にあり、これに仏教的な信仰が加わることで、室町時代には庚申待(こうしんまち)をする講が結ばれ、月待講による供養塔造立にならった庚申塔造立が始まりました。
 庚申待の行事、庚申塔の造立は、人の延命招福にありますが、村の講中の者が徹夜で酒食をとることから、村人の連帯にも繋がりました。
写真撮影:2008年04月02日

庚申塔 京急馬堀海岸駅下車 徒歩10分
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庚申塔
庚申塔
 主尊の掘られた庚申塔が2基、文字碑が2基でした。4基すべて、青面金剛です。
 1695年(元禄8年)11月2日に建てられた庚申塔です。
 三浦半島は、庚申塔の数がとても多いエリアとして有名です。江戸時代末期まで、盛んに庚申塔が建てられました。
 江戸時代になると、造形的に多様な種類をとって沖縄を除く全国各地で造立されるようになりました。道端の石仏に中でもっとも親しまれています。三浦半島内では聞いたことがありませんが、現在でも庚申講が行われている場所もあります。
 室町時代後期の庚申待板碑には阿弥陀如来を本尊とするものが作られていました。江戸時代になると疫病から身を守ってくれる青面金剛、道案内の神様の猿田彦神などを本尊とするようになりました。特に決まりはないようです。
 青面金剛の神使である猿が彫られるのは、見ざる、聞かざる、言わざるという謹慎態度を示すためのようです。日月や鶏を彫刻するのは日待月待信仰から、邪気を彫刻するのは魔性を圧伏する意味からきているものと言われています。
 庚申塔の造立を月別にみると、11月が圧倒的に多く、7月がもっとも少ないです。
写真撮影:2008年04月02日

庚申塔 京急馬堀海岸駅下車 徒歩10分
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庚申塔
庚申塔
 かなり痛みが激しい庚申塔ですね。せっかくの庚申塔ですが、2基とも笠が紛失してしまっています。
 痛みが激しく、建立年月日は確認できませんでした。
 江戸時代前期、寛文・延宝の頃までに造立された庚申塔は、庚申講の結衆の銘、舟型、猿だけが刻まれた、シンプルなものが多いです。
 江戸時代中期、元禄前後〜享保の頃に建てられた庚申塔は、青面金剛が刻まれ、豪華で飾りがとても賑やかなものが多いです。
 江戸時代後期になると、角型、自然石型が増加します。デザインも簡略化され、文字だけのものが多くなりますが、文字そのものに工夫を凝らしてあります。
写真撮影:2008年04月02日
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