佐助の歴史
源氏山の南西、滑川の支流の佐助川の上流に位置します。海抜50m〜100mの低丘陵に囲まれた複雑な谷地が広がり、全体を佐介谷といい、木部ヶ谷、七観音谷、鍛冶ヶ谷、宝蓮寺谷、北斗堂谷、西ヶ谷などの支谷があります。
谷の奥に銭洗弁天、佐助稲荷があります。光明寺の前身、蓮華寺や松谷文庫(佐介文庫)もあったと言われています。現在はほぼ住宅地となっており、横浜地方法務局鎌倉出張所、鎌倉保育園などがあります。
鎌倉時代から確認できる地名で、相模国鎌倉郡の佐介です。佐介谷とも記されています。
『吾妻鏡』寛元4年6月27日条に「入道越後守時守佐介第」とあり、鎌倉追放となった前将軍藤原頼経が、この地にあった北条時盛第に入り、翌7月に帰洛しました。このことが先例となって、建長4年4月藤原頼嗣が帰洛する前の3月21日に「入道越後守佐介亭」に入り、文永3年7月宗尊親王が帰洛する際にも7月4日に時盛亭に入っています。
『吾妻鏡』宝治元年正月30日条によれば、時盛亭の後山に光物が飛んだことから祈祷が行われました。
『吾妻鏡』建長2年6月24日条には、この地に居住していた者が自殺を企て、その死体を見るために人々が集まったとあります。
文永8年卯月5日の年紀のある阿字肝心抄奥書に「佐介谷禅房」とあるのが、谷名の初見とされています。
正和3年頃と推定される円義書状は、「さすけ」から宇治の義観房に出されたものです。
『悉曇字記抄』扉書の墨書に「弘安八年酉七月十八日於関東佐介谷信範記云明了坊即指此記云々」とあり、「四教五時略名目」の奥書にも「元徳四年<壬甲>正月廿二日於鎌倉佐介谷抄之畢、恵鎮記之」とあります。
年未詳の某書状に「佐介の口ニ松尾と申候所に」とあります。
『鶴岡事書日記』応永5年6月状に、承仕給分として「佐介<屋地五戸主此他堂料所也>」とあり、この地ではまだ戸主制が存続していたことがわかります。
永享年間に成立したという『鶴岡八幡宮寺社務職次第』には「一、鎌倉郡谷七郷事、・・・小林郷<下若遍(宮辺カ)、佐介等>」とあります。
応永24年の上杉禅秀の乱の際には、『鎌倉大草紙』によれば、10月2日木戸満範の知らせによって禅秀の挙兵を知った足利持氏は「御馬にめし塔辻は敵篝を焼て警固しける間、岩戸のうへの山路をめぐり、十二所にかかり小坪を打いで、前はまを佐介へいらせ給ふ」とあります。この地に移りましたが、3日に持氏は「佐介館」に火がかかったので、小田原に落ち延びています。『湘山星移集』にも同じ記事があります。
『鶴岡事書日記』の明徳5年6月20日条に「臨時祭礼略事、佐介谷屋地、上下ノ修正月々祭礼御八講已下之為料所」とあり、源頼朝のときに当地を鶴岡上下宮の修正会などの料所と定められましたが、去年(明徳4年)に当地の地子を鶴岡の修理料に充てられていたことがわかります。
江戸時代、大町村、扇谷村の入会地でした。
昭和40年、鎌倉市の町名となりました。もとは扇ガ谷の西佐助・東佐助、大町の佐助谷の一部、梶原の一部でした。
昭和45年、1丁目は世帯数261、人口1013。2丁目は世帯数186、人口660でした。
地名の由来
鎌倉時代の有力御家人の上総介、三浦介、常陸介の三介の屋敷があって三介ガ谷と呼ばれていたのが、いつしか佐助ガ谷になったと伝えられています。
また、佐助稲荷の神霊が起きなの姿になって源頼朝(佐殿)に挙兵を勧めました。病気を癒し、挙兵を勧めた稲荷の神霊が祀られ、佐殿を助けた稲荷ということから佐助稲荷と呼ばれたことに由来するとの説もあります。
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