そらいろネット > 三浦半島観光地図 > 三浦市 > 初声町三戸 > 福泉寺

福泉寺


福泉寺

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
福泉寺
福泉寺

 浄土宗のお寺で、山号は龍円山といいます。三戸の中で、「神田」と呼ばれる地区にあります。
 本尊は、阿弥陀三尊です。忠臣に阿弥陀如来があり、右側の脇侍には聖観音菩薩、左側の脇侍には勢至菩薩があります。
 開山は永禄年間(1558年〜1570年)、専然(せんねん)という僧侶によります。開基は、地元の村人で、進藤隼人という人です。
 進藤隼人の子孫は現在でも三戸に住んでいます。1213年(建暦3年)、和田の乱の時に、鎌倉で討ち死にしたと言われています。その墓は、鎌倉の光明寺にあると言われています。
 頻繁に改装しているようで、新しくて綺麗なお寺です。
 三浦半島には、徳本上人の揮毫による念仏供養塔が、20基以上あります。
 徳本上人は庶民に信仰を広めるため、市井の中に入って仏門を唱えながら、各地を旅して布教活動を行いました。帰依した人の望みに応じて、「南無阿弥陀仏」の名号を書き、供養塔を建て、念仏の布教に生涯を捧げた念仏行者です。
 石塔にニョロニョロとした文字が書かれているのが、「南無阿弥陀仏」って書いてあります。達筆すぎて私には読めないのですが、下の方に小さく「徳本」って書いてあることが多いです。

写真撮影:2008年10月04日

福泉寺

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
福泉寺
福泉寺

 徳本上人は、1758年(宝暦8年)6月、現在の和歌山県日高郡志賀谷久志村の漁師の子として生まれ、苗字は田伏でした。4歳の時に兄を失い、世の中の無常を感じ、9歳になると出家したいと願うようになりました。
 母親は願いを聞き入れず、1784年(天明4年)、27歳になってようやく母親の許しを得て、出家しました。翌年には大滝山月正寺に行き、一日中、法衣を着たまま念仏修行を行いました。
 1794年(寛政6年)、京都西山比叡の宗祖、法然上人の旧跡を参拝し、念仏布教に勤めながら行脚しました。そして、増上寺天海大僧正が徳本のことを耳にし、鸞州上人が京都へ向かう際に、関東へ訪れるように伝言しました。
 1814年(文化11年)5月17日、摂津の勝尾寺を出て、京都の円通寺を訪れ、桑名、宮、島田、箱根、鎌倉と東海道を通り、神奈川を経て江戸に到着し、小石川に伝通院に行きました。
 1815年(文化12年)、江戸での布教を終えた帰りに、鎌倉から葉山、浦賀、そして三浦半島の寺院を訪れました。各地にある浄土宗の寺院を訪れ、十念を授け、念仏の功徳を説きました。三浦市では、光念寺、延命山地蔵堂などを訪れました。
三浦半島観光地図:三浦市初声町三戸・光照寺
三浦半島観光地図:三浦市初声町下宮田・延寿寺
 現在でも、百万遍念仏講の大数珠が残されています。かつては、鐘を流しながら、長さ約11mにもなる大数珠を担ぎ、念仏を唱えながら狭い路地を練り歩き、海の中まで入ったと言われています。
 1818年(文政元年)10月6日、小石川の一行院で、61歳の生涯を閉じました。各地を巡って念仏を広め、回国行脚の生涯を送りました。

写真撮影:2008年10月04日

福泉寺

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
福泉寺
福泉寺

 屋根の頂には、立派な鴟尾が置かれています。以前はなかったものなので、改築したときに新しく作られたものです。
 城には、シャチホコが乗っていますね。雨を降らせると言われているため、建物を火災から守ってくれると信じられてきました。
 1901年(明治34年)、村人たちによって雲版(うんばん)が奉納されています。
 雲版は、雲の形をした金属製の板状の仏具です。お寺では、時の合図や、読経、経文を唱える時に鳴らす道具です。
 また、廊下の天井には、長さ1m65cmで、二枚板を合わせて腹部はくり抜かれている、魚鼓があります。
 魚鼓は禅宗寺院の軒下などに吊り下げられていることが多く、食事の時刻や、堂外へ知らせる道具として、使用されます。平面的な厚い板で作られた物は、魚板といい、浴室や来客を知らせる合図に使われています。
 魚鼓を丸く曲げたものが、木魚になります。木魚には、頭と尻尾が接したもの、二頭の龍が口に宝玉をくわえたりと、魚類がデザインされていることが多いです。魚類は昼夜を問わず目を閉じて眠ることがないので、修行僧が寝ることを忘れ、仏門に励むようにとの教えが込められています。
 福泉寺にある魚鼓は、もともとは、鮮やかな紅色に塗られていたようです。長い年月が経過し、漆が剥がれたり、腹回りは木肌が擦り減ってささくれています。鯱形で、龍頭魚身で、アゴを突き出した大きな口には、108の煩悩を表す宝玉をくわえています。

写真撮影:2008年10月04日

手水舎

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
手水舎
手水舎

 かなり立派な手水舎がありました。柱が太く、屋根には厚い屋根瓦が乗っていて、とても重厚な造りをしています。
 参拝に来た人は、ここで手や口を清めるのが、正式な作法です。水は張られていなかったけどね。
 手水舎も立派なんだけど、何よりも目を惹いたのが、水盤。巨大なひとつの岩石なんですが、黄色いんですよ。やや黄色っぽい岩石ってわけじゃなくて、完全な黄色です。
 黄色い岩石と言ったら、自然硫黄くらいしか思いつかないですねー。三浦半島で温泉と言えば、横須賀市の阿部倉温泉でしょうか。でも、阿部倉温泉で岩石が採れるとか、聞いたことないしなー。神奈川県でいったら、箱根あたりから産出されるのかもしれないけど。こんなに大きな岩石、どこから持ってきたんだろう?
 1997年(平成9年)、新しく作られたものです。水盤も、その時に作られたものだと思います。
 そして、山登りの詳しい人から、貴重な情報を頂きました。巨大な黄色い水盤は、伊達冠石という岩石でした。日本では宮城県から産出される、安山岩でした。とても珍しい岩石らしいです。

写真撮影:2008年10月04日

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
龍

 黄色い水盤には、銅で出来た龍の蛇口が。稼働すれば、龍の口から水が出て、水盤に水が注がれるのでしょう。
 残念ながら動いていなかったし、水盤の栓は抜かれていて、栓は龍の右手に置かれてありました。なくさないように、龍に持たせているんだと思います。
 とても立派な龍だったし、風水では龍の置き物を玄関に置いておくと良いと言われているので。引き抜いて持って帰りたかったんだけど。そんなことをしたら、風水で運気が上がるどころか、天罰が下りそうなので、やめておきました。

写真撮影:2008年10月04日

鐘楼

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
鐘楼
鐘楼

 大きな鐘楼。大きな梵鐘。大きな屋根。大きなノッポの古時計。
 梵鐘は時を告げる鐘です。毎日、決まった時間に鐘を突き、時間を知らせる役割を担っていました。
 それにしても、屋根がスゴイです。こういうのって、化粧屋根裏天井っていうの?垂木がたくさん並んでいて、実に見事ですねー。見とれてしまいます。
 三戸では一番大きなお寺なのかなー。
 1688年(貞享5年)、鋳造されました。開基の進藤隼人の子孫と言われる進藤庄兵衛という人を始め、64人がお金を出し合って、江戸の神田で鋳物師をしていた人に注文して鋳造されました。
 高さ3尺8寸2分(1.15m)、口径2尺1寸(66cm)あります。
 しかし、太平洋戦争の際、供出となり失われてしまいました。現在の梵鐘は、1988年(昭和63年)に新しく作られたものです。

写真撮影:2008年10月04日

六地蔵

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
六地蔵
六地蔵

 六地蔵です。六地蔵はどこの寺院に行っても置かれていることが多く、六地蔵として作られた地蔵が並んでいるのが一般的です。まれに、寄せ集めて6体並べただけの、六地蔵もあったりします。
 この六地蔵は、六地蔵として作られたものだと思うのですが。1体ずつ、異なるようです。高さも違うし、印相も違うし、持ち物も違うし。こういった六地蔵は、めずらしいのかもしれない。普通はほとんど同じ6体の地蔵が並んでいるので。
 一番左側の地蔵だけ、時代が違うような気もします。彫り方が違うと思うんですよ。

写真撮影:2008年10月04日

庚申塔

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
庚申塔
庚申塔

 福泉寺の入り口にあった、庚申塔です。光の加減で、真っ白になっちゃいました。自分の写真を撮影するテクニックが足りないんじゃなくて、本当に白いんです。白い石に彫られていて、そこに太陽の光が当たっているので、白くなっちゃいました。
 笠や台座と、庚申塔の中心部は、まったく異なる石材で造られているみたいです。
 笠付きの角柱型の庚申塔です。1767年(明和4年)に建立された庚申塔。
 主尊は、青面金剛です。邪鬼を踏み付け、その下に三猿が彫られてあります。邪鬼が、あまり邪鬼っぽくないので、猿のようにも見えます。
三浦半島観光地図:三浦市初声町三戸・庚申塔
三浦半島観光地図:三浦市初声町三戸・光照寺

写真撮影:2008年10月04日

六十六部の碑

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
六十六部の碑
六十六部の碑

 たぶん、六十六部の碑だったと思うんですが・・・。忘れちゃった(^^ゞ
 1763年(宝暦13年)に建立された石仏です。
 光背の形が変わっているので、これが隠れキリシタンの子安観音だったかな?
三浦半島観光地図:三浦市初声町三戸・三戸浜海岸
三浦半島観光地図:三浦市初声町三戸・光照寺

写真撮影:2008年10月04日

六十六部の碑

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
六十六部の碑
六十六部の碑

 六十六部という文字が読み取れるので、六十六部の碑です。三戸には本当に、六十六部の碑や、庚申塔が多いですねー。石塔を奉納する風習があった、しかも石塔を奉納する習慣が強かったとしか、考えられないですねー。
 人家は100戸前後しかない、半農半漁の寒村だと言われていますが。石塔を建てるには、それなりの資金がないとできないことなので。三浦半島の他の地域に比べて、信心深い人々が多かったのか、裕福だったのかもしれないですねー。
 1800年(寛政12年)に建立された、六十六部の碑です。

写真撮影:2008年10月04日

六十六部の碑

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
六十六部の碑
六十六部の碑

 碑文はわかりづらいかもしれませんが、現在の文字にすると「大乗妙典六十六部供養塔」って書いてあります。右側には「天下和順」、左側には「日月清明」って書いてあります。
 江戸時代の六十六部は、信仰のために行くこともありますが、観光旅行として行くこともありました。しかしこの石碑には、「天下和順」と書かれてあるし、側面には福泉寺の和尚の名も刻まれているので、実際に66ヶ国を回って、巡礼を行ったんじゃないかなーと思います。

写真撮影:2008年10月04日

一切亡虫魚墓

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
一切亡虫魚墓
一切亡虫魚墓

 お墓です。墓石の下に、遺骨が納められているわけではありません。供養塔としての役割を担っていると考えられます。
 高さ約50cm、幅約25cmの、小さなお墓です。
 虫や魚など、すべての生き物を供養するためのお墓です。
 三戸の村は、かつては半農半漁の村で、どちらかというと漁業が中心の村でした。そのため、漁をするときに、エサとして虫を使い、漁で魚を獲っているので、自分たちの行いによって命を奪う結果となった生き物から恨まれないように、たたれないようにといった気持ちから、建てられた供養塔だと思います。
 魚介類の供養塔は、漁師町ではたまに見かけることがあります。生き物を大切にし、信仰の厚い人々が暮らしていたことがわかります。

写真撮影:2008年10月04日

石仏

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
石仏
石仏

 1769年(明和6年)に建立された、石仏です。
 主尊は、観音菩薩でしょう。台座に何か彫刻が施されていた跡が残っていますが、蓮の花かな?
 本堂へと向かう参道に建てられていた石仏です。何なのか、文字が読み取れなかったので、確認できませんでした。
 こっちが、隠れキリシタンの子安観音だったかな?福泉寺には、隠れキリシタンの子安観音の石仏があるはずです。
 卒塔婆が置かれているので、お墓なのかもしれないです。

写真撮影:2008年10月04日

石仏

京急三崎口駅下車 徒歩25分
地図
石仏
石仏

 大きいのから、小さいのまで、5基の石仏が並んでいました。気になったので写真だけ撮っておいたのですが、こちらの石仏も、確認しませんでした。お墓である可能性が高いと思われます。
 左側の石仏が立派で、右側に行くにしたがって、少しずつ小さくなります。一番右側の石仏は、自然石が使われていました。
 左側の2基は、台座の周囲に水が貯えられるように造られています。江戸時代の形式だと思いますが、それなりに地位のある人のお墓の形式です。もしかしたら、歴代のお寺の和尚さんのお墓かもしれないです。
 この石仏の右側には、穴が掘られていました。防空壕として使われていたもののようです。三戸浜海岸には、たくさんの要塞陣地が造られていたので、何か関係があるのではないかと思います。
三浦半島観光地図:三浦市初声町三戸・三戸浜海岸

写真撮影:2008年10月04日
メインコンテンツ
 
家庭の医学
身近な植物図鑑
身近な昆虫図鑑
身近な野鳥図鑑
身近な貝殻図鑑
身近な生き物図鑑
ベランダ園芸
三浦半島観光地図
無料で塗り絵
ゲーム情報局
日記
コミュニティー
 
広告
SNS
チェック
このエントリーをはてなブックマークに追加


  三浦市-初声町三戸  
宝徳寺 そらいろネット 池ノ上湿地
Copyright そらいろネット All right reserved.